2017.02.08 Wednesday

『アルプス一万尺』と都々逸(2/2)/都々逸とは(2)

JUGEMテーマ:都々逸

 

<『アルプス一万尺』と都々逸(1/2)>からの続き

 

 

■増え続ける歌詞

 

 さっそく『安曇節』と『アルプス一万尺』の歌詞の比較をすることにした。しかし、調べてみるとそこには厄介な問題があることが分かった。『安曇節』の歌詞は、もの凄く多い。多いというよりも、地域の人たちが今でも創作し続けているので、数がどんどん増えているのである。

 

 長野県が運営していると思われる[長野県魅力発信ブログ]の[安曇節の歌詞数]によれば、

[現在、安曇節の歌詞は松川村教育委員会に保存されているものだけでも五万首を超え、一説では十万首以上]

と、言われているようだ。

 

 なぜ創作が続けられて安曇節の歌詞が増え続けているのか、その理由はそのページを見ればわかることだが、いちおう該当箇所を引用しておこう。

安曇野の民謡「安曇節」は、大正十二年に故榛葉 太生(しんは ふとお)氏によって創設された松川村発祥の民謡です。

(中略)

 作詞、作曲は専門家に頼らず広く地域から募り、また、踊りについても同好有志や村の人々と知恵を絞りながら創作しました。

(中略)

 また榛葉氏の勧めもあり、各地区では定期的に詞(うた)作りを楽しむ会「踊り会」が開かれ、その詩の数は年とともに増えていきました。

 

 民謡を[創設]するという表現は始めて見たが、今でも新しい歌詞が加わっているため「出来上がった」という意味合いを含まないように配慮しているのだろうか。それとも私が知らないだけで民謡を創設するというのはよく使われる表現なのであろうか。

 

 それはともかく、専門家に頼らず広く地域から募るという方針で作られた民謡であるため、今でも地元の人たちが創作を続け、歌詞が増え続けているのである。

 

 五万首や十万首となると、とても全てを検証することはできないが、とりあえずネット上で『安曇節』の歌詞を検索すると、その一部は出てきた。

 

 線翔という方が運営する[線翔庵]というホームページの[民謡コレクションの間]の中にそれを見つけたのである。

[線翔庵]のホームページ

[民謡コレクションの間]

 

 そこから『安曇節』歌詞を、すべてこのブログに引用して考察したいと思い、サイトを運営している線翔氏に引用許可のお願いをメールした。しかし現時点ではまだ返信がない。そこで引用はひとまず断念し、リンクだけを貼っておく。

 

『安曇節』歌詞

http://senshoan.main.jp/minyou/azumibusi-word.html

 

 リンク先のページを開き、『安曇節』の歌詞を見て、『アルプス一万尺』の歌詞と較べていただきたい。

 

 そこに『アルプス一万尺』とほぼ同じ歌詞が2つあることが確認できるはずだ。

 

03:岩魚釣る子に 山路を聞けば 雲のかなたを 竿で指す

が、リンク先『安曇節』の歌詞の下から3行目にあり、

 

21:ザイル担いで 穂高の山へ 明日は男の 度胸試し

が、下から2行目にある。

 

 また、その他にも似たような文句が出てくるが、歌の舞台が近いため偶然ということもありうるかもしれないし、どちらかが影響されたのかもしれない。不明である。

 

 この記事で最初に取り上げた問題の都々逸

夢に見るよじゃ 惚れよがうすい 真に惚れたら 眠られぬ

は、リンク先の歌詞にはない。

 だが『安曇節』には、五万首から十万首以上の歌詞があるというのだから、リンク先に出ている歌詞はほんの一部であり、それだけで「安曇節にはない」と判断することはできない。

 

 同じ理由で『アルプス一万尺』の歌詞と同じものが、もっとたくさん『安曇節』にあるかもしれないが、それも不明である。

 

 この検証によって確認できたことは「ほぼ同じ歌詞が2つ見つかった」ということだけである。しかし、ほぼ同じ歌詞が2つ見つかったということは、両者になんらかの直接的な関係があると見て間違いないであろう。

 

 

 

■どちらが先か

 

 やはり『アルプス一万尺』の歌詞は、その一部に『安曇節』の歌詞を流用しているのであろうか。

 その可能性は高いとは思うが、いちおう、それとは違う仮説も2つ立てることができる。

 

 1つめは、

[『安曇節』も『アルプス一万尺』も、既にあった都々逸あるいは別の民謡の歌詞から、同じものを、それぞれの詞に取り入れた]

という仮説。

 

 2つめは、

[『アルプス一万尺』の歌詞の方が先で、それを『安曇節』が流用している]

という仮説。

 

 1つめも、ありえないことではないと考えるが、私にそれを検証することは不可能である。安曇野節を含め古今東西の民謡の歌詞と、都々逸の膨大なデータベースでもあれば可能かもしれないが、無理だ。

 

 2つめの仮説については、これからいちおう検証を試みるが、巨大な砂山の砂を一粒だけ崩すような検証なので、あまり意味がないものであることを先に断っておく。

 

 『アルプス一万尺』と『安曇節』の、どちらが先にできたのか。

 『安曇節』がいつ作られたについては、先ほども参照した[長野県魅力発信ブログ]に

[安曇野の民謡「安曇節」は、大正十二年に故榛葉太生(しんは ふとお)氏によって創設された松川村発祥の民謡です。]

と、ある。

 

 創設されたのが大正十二年ということだが、歌詞はそれから増え続けているので、その時点で歌詞が決定したわけではない。その年に最初の安曇節の歌詞が集められたということである。

 

 一方『アルプス一万尺』は、いつ頃にできたのであろうか。これは調べても出て来なかったので、独自に推測を試みる。

 今のところ他にまったく手がかりがないので、とりあえず[西堀榮三郎を中心に京都大学山岳部によって作られた]という説に基づいて推測する。

 

 西堀榮三郎は明治36年(1903年)の生まれなので、「安曇節」が作られた大正十二年には二十歳ということなろうか。当時の学制に詳しくないので断定はできないし、西堀榮三郎くらい優秀なら飛級もあったかもしれないし、よくわからないが、だいたい大学に入学した頃ではないだろうか。だから既に山岳部に入部して活躍していた可能性はある。あくまでも可能性はあるというだけだが……

 

 いずれにしても、もし西堀榮三郎が京都大学の学生だった時に『アルプス一万尺』の日本語詞ができたのであれば、それは『安曇節』が創設されたのと、けっこう近い時期ということになる。

 

 検証できるのはせいぜいこの程度のことだ。つまり何も断定できない。だが、これらの乏しい調査結果をもとに、推測を主として現時点での仮説をいちおうまとめておこう。

 

 

『アルプス一万尺』の歌詞についての仮説

 

  1. 『アルプス一万尺』は、色々な人が作った文句(都々逸か)の寄せ集めではないだろうか。
  2. 色々な人というのが、京大山岳部の部員かどうかは不明だが、内容から推測して登山愛好者達であることは間違いないであろう。
  3. 寄せ集めでできているので、オリジナルの他に、他の民謡の歌詞や都々逸などが混入している可能性はある。
  4. それらは、曲としてまとめる時に意図的に混入させたものか、意図せず混入したのかは不明である。
  5. また、そのまま混入したものだけでなく、他の民謡の歌詞や都々逸に強い影響を受けて新たに作られたものもあるかもしれない。14番の歌詞[夢に見るよじゃ 惚れよがうすい 真に惚れたら 眠られぬ]は、流用ではなく、既にあった都々逸を真似て作られたものである可能性も否定できない。
  6. 1番の歌詞はかなり字余りになっているが、これは『アルプス一万尺』という歌として完成させる時に新たに創作して入れたのではないだろうか。

 

 

 次に

『安曇節』についての仮説

 

[長野県魅力発信ブログ]に、

[古くからこの地方で唄われていた仕事唄のいいところを活かし、かつ高尚な趣味としても満足の出来る民謡を作ろうと考えました。]

と、あることから考えて、曲が創設された当初からあるの歌詞の中に、既にあった他の民謡の歌詞や都々逸のような文句等が混入していても不思議ではなない。民謡にはよく見られることである。

 

 

 

■都々逸の楽しみ

 

 検証は以上である。ここからは、今回の考察をもとに真の目的である[都々逸とは何か][都々逸らしさとは何か]を探り、私の都々逸学習の助けにしたいと思う。

 

 まず「『アルプス一万尺』の歌詞は都々逸である」と、言い切ってよいのだろうか。正直なところ、私にはよくわからない。歌詞とし て作られたなら歌詞だし、都々逸として作られたなら歌詞に採用された都々逸であるとしか言いようがない。

 

 もう何度も書いているように、都々逸と同じ音数の文句は、甚句調とか近世調・近世小唄調とか呼ばれるもので、実に多くの民謡の歌詞、それに歌謡曲などの歌詞にも見られるものである。都々逸が誕生する以前から、同じ音数の民謡はたくさんあった。というよりも、そんな民謡の中から都々逸は生まれた。だから、都々逸と同じ音数律のものをすべて都々逸と言うことはできない。むしろ、膨大な数の七七七五調の中の一つが都々逸であるにすぎない。

 

 だが、たと えば、もし私が想像したように、宴会を開いて、酔っぱらっていい気分になって自作の詞を唄い合っているような、そんな作られ方をしたらのなら、それは都々逸らしいように思う。そういう親しみやすさや卑近な感じに都々逸の良さがあると考えるからだ。

 作者不明で後世に伝わる都々逸や民謡の歌詞の多くは、そんなところから生まれ、淘汰されたり、改変が重ねられたりしながら後世に伝わったのではないだろうか。

 

 実際の歌詞について少しだけ取り上げると、たとえば11番の歌詞(私はあまり好きではないが)、

山のこだまは かえってくるけど 僕のラブレター 返ってこない

などは、14番ほどではないにしても、けっこう都々逸っぽいような感じがする。

 

 これはやはり、口語というか、喋り言葉に近い文句になってるのがいいのだろうか。

山のこだまは 返りはすれど わしの恋文 返りゃせぬ

などとやってしまったら駄目になってしまうのだろうか……

 

 14番以外で一番気に入ったのは20番の、

命捧げて 恋するものに 何故に冷たい 岩の肌

である。

 これは、そのままの意味で登山の都々逸にもなりうるし、別の意味を込めていると考えてもいいように思う。

 

 

 一方、『安曇節』の歌詞の方は、当たり前のことだが、時代を越えてずっと作り続けられているものであるため、作られた時代によっても趣は異なってくるだろうし、作る人によっても違ってくるわけだが、リンク先に載っている歌詞は、都々逸っぽい感じのするものが多い。

 

 それらを都々逸と言っていいのかと言えば、もちろん違うだろう。甚句調もしくは近世調の音数よりなる歌詞という方が正しい。繰り返しになるが、理屈としては、都々逸を作ろうとして作ったなら都々逸だが、歌詞を作ろうとして作ったなら歌詞だ。だが、そこに都々逸っぽさを感じかどうは、また別の問題である。私はそれらの歌詞に都々逸っぽさを感じる。これらの歌詞が作られた時代の文化や人々の意識が、都々逸らしさと一致するためであろうか。

 

 安曇野という地域の生活に関連した歌詞が目につき、暮らしに根ざした素晴らしい都々逸になっているように感じられる。

 もちろん、そのリンク先に載っている歌詞は膨大な数の『安曇節』歌詞の中でも特に有名で、優れたものばかりであろうから当然なのかもしれないが、かなり学べることが多いように思える。

 

 

 今回、『アルプス一万尺』の歌詞の中に有名な都々逸が混入しているということをきっかけに、二つの曲の歌詞について学ぶことができた。その2つの歌には重要な共通点があるのではないかと思う。

 

 『アルプス一万尺』は、登山という趣味を持った人たちの作った七七七五の文句が集められた歌詞で構成されいる。『安曇節』は安曇野に暮らす人々の作った七七七五の文句が集められた歌詞でできている。ともに何か繋がりがある人たち同士で作り合い、それを楽しんでいるということである。

 

 繰り返しになるが、本来、都々逸や民謡の歌詞は、そういうところからたくさん生まれて、やがて淘汰され、改変され、その中から後世に伝わり残るものが出てくるのであろう。都々逸の良さの一つもまた、そういった自由な気風にあるのかもしれない。

 

 

2017.02.02 Thursday

湯島天神の[都々逸之碑]を訪ねる/校外学習(2)

JUGEMテーマ:東京散歩

 

都々逸之碑 湯島天神

 

 前回の記事[浅草弁天山の[都々逸塚]を訪ねる]に続いて、今回は[湯島天神の[都々逸之碑]を訪ねる]である。前回も書いたが、昨年の5月の終わりに撮った写真をもとに書いた記事である。

 

 冒頭の写真の[都々逸之碑]は、湯島天神の本殿の東に立っている。写真では表面に刻まれた文字が読みにくいので転写する。

都々逸は日本語の優雅さ言葉の綾言回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六字で綴る大衆の詩である古くより黒岩涙香平山蘆江長谷川伸らの先覚者により普及しわれわれとその流れの中で研鑽を重ねて来た短歌俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の在すこの地に碑を建立する

 平成二十年十二月吉日 世話人 谷口安閑坊 吉住義之助

 

東京

 しぐれ吟社

茨城

 花野吟社

東京

 萬友会

岐阜

 かがり吟社

東京

 遊又会

長野

 白樺吟社

東京

 眺牛会

愛知

 千鳥吟社

京都

 おむろ吟社  

東京

 老友新聞社

 なるほど、湯島天神に都々逸之碑を建立した理由は、詩歌の神様とされる菅原道真を祀っているからだったのか。

 

 黒岩涙香・平山蘆江・長谷川伸らの名を先覚者として挙げておきながら、それ以前の都々逸の長い歴史について一切触れていないのは、この都々逸之碑建立に協賛した各吟社の都々逸に対する主張や考え、立場を表したものであろうか。

 

 それと、不思議に思ったのは、この碑には[しぐれ吟社]の他にも4つの東京の吟社の名が連ねてあることだ。

 現在、しぐれ吟社は東京で唯一の都々逸の吟社だと聞くし、しぐれ吟社のブログにも「短詩文芸・都々逸の東京で唯一の結社です」と書いてある。

 

 これはどういうことだろうか。平成二十年には存在した4つの吟社が、この9年以内にすべてなくなってしまったということだろうか。 わからないが、もしそうであるなら、近年に著しく都々逸が衰退したことを表していることになってしまう。 

 都々逸を愛する者にとって衝撃的なことであるが、そのことについて、ここでとやかく書いても仕方がないので、都々逸之碑については以上にしておく。

 

 では、ついでと言っては何だが、湯島天神の境内には都々逸の碑の他にも様々な石碑があるので紹介してみよう。

 

 

 まずは[講談高座発祥の地]の碑。

 

[講談高座発祥の地]の碑/湯島天神

 

[講談高座発祥の地]の碑/湯島天神

 

 

 [文房至宝碑]なんていうのもある。

 

文房至宝碑由来 湯島天神

 

 

 そして[新派碑]。

 

新派碑 湯島天神

 

「新派」碑由来

 

 [「新派」碑 由来]の文中にある「新派とは深い縁で結ばれております当天神様〜」の「深い縁」というのは、やはり「お蔦 主税」で有名な、泉鏡花原作の『婦系図』をもとにした新派の舞台に湯島天神が登場することを言っているのであろうか。

 それに関連した事柄は、やはり境内にある[瓦斯灯]の説明看板に書かれているが、まずはその瓦斯燈の写真である。明治の頃のものを再現したようだ。

 

瓦斯灯 湯島天神

 

 そして、この瓦斯灯についての説明看板がこれだ。

 

瓦斯灯 説明書 湯島天神

 

 この説明書きの最後に、『婦系図』をもとに作られた歌『湯島の白梅』の3番の歌詞が引用されている。歌詞の冒頭にガス灯が出てくるからであろう。だが、やはり、『湯島の白梅』の歌詞で最も印象が強いのは1番の出だし部分である。

 ということで、『湯島の白梅』へのオマージュと都々逸への思いを込め、

 

湯島通れば 天神様に

都々逸聴かせる 心意気

 

なんて畏れ多い都々逸をうたってみる。

 そして、さらにに畏れ多くも、今の時季に相応しい梅を詠んだ道真公の有名な歌

 

東風吹かば にほひをこせよ 梅の花

主なしとて 春を忘るな

 

へ、敬意を表し、都々逸で締めてみたい。

 

忘れても

思い起こせば なお匂い立つ

東風が招くは 梅の花

 

 

詩歌の神様のご加護がありますように

 

湯島天満宮本殿

2017.02.01 Wednesday

浅草弁天山の[都々逸塚]を訪ねる/校外学習(1)

JUGEMテーマ:東京散歩

 

浅草 弁天山 都々逸塚

 

 今回の記事は、昨年の6月5日に書いた[上野公園から浅草寺まで歩く]続きだ。

 

 なぜ、そんな半年以上も前に書いた記事の続きを今さら書くかというと、続きを書くのをずっと忘れていて、最近になってようやく思い出したからだ。

 

 昨年の5月の終わりに「都々逸のブログを始めたのだから、都々逸に関連した場所を巡って記事にしよう」と思い、上野公園から歩いて[浅草寺境内の弁天山]に行き、さらに[湯島天満宮(湯島天神)]にも行って写真を撮ってきた。浅草寺境内の弁天山には[都々逸塚]があり、湯島天神には[都々逸之碑]があるからだ。しかし、それをうっかり忘れてしまっていたというわけである。

 

 そして、それを今頃どうして思い出したのかというと「そろそろ今年も湯島天神の梅祭りが近いな」などと考えているうちに、湯島天神に都々逸之碑を見に行ったことを思い出し、同じ日に行った浅草の弁天山の都々逸塚のことも思い出したのである。

 

 そこで、今回は浅草の弁天山にある[都々逸塚]について書く。次回は湯島天神の[都々逸之碑]について書くことになると思う。

 

 

 というわけで、冒頭の写真は、東京は浅草の浅草寺境内弁天山にある[都々逸塚]である。

 書かれている文字はおそらく、

情歌二六会

都々逸塚

亀屋忠兵衛

であろうと思われる。

 

 [亀屋忠兵衛]だけで検索しても、上位には近松門左衛門作の浄瑠璃『冥途の飛脚』あるいは、歌舞伎の『恋飛脚大和往来』の主人公の亀屋忠兵衛しか出てこないかもしれない。もちろん、その亀屋忠兵衛とは別人で、落語家出身の都々逸作家の亀屋忠兵衛のことである。多くの都々逸を作り[亀屋忠兵衛情歌集・都々逸『下町』]という都々逸集なども出している。

 

 亀屋忠兵衛の都々逸としてネット上でよく見かけるのは

 

このまま死んでも いい極楽の 夢を埋める 雨の音

 

という作品だ。

 

 忠兵衛は、都々逸の興隆のための活動も活発に行っていて、[しぐれ吟社]との関係も深いようだ。[情歌二六会]というのは、忠兵衛を中心に結成されてた都々逸の勉強会のようである。[情歌]というのは[都々逸]の異称である。男女の恋情をうったったものが多いところから、そう呼ばれることもある。ただし[情歌二六会]がそういったことを特に意識していたかどうかはわからない。

 

 弁天山の都々逸塚は、情歌二六会の会員である鳶頭の桶田弥三郎の尽力を得て亀屋忠兵衛が昭和四十二年に建立したものだ。

 

 弁天山は浅草寺本堂の南東にある。山の上には[弁天堂]が建っており、それで弁天山と呼ばれるのであろう。

 

浅草寺 弁天堂

 

 弁天堂について説明した看板も写真に撮ったので貼っておく。

 

浅草寺 弁天堂 説明

 

 

 また、弁天山には[時の鐘]もある。

 

浅草 時の鐘

 

浅草 時の鐘 説明

 

 

 都々逸塚の他にも色々な石碑がある。

 

 花柳徳三郎の[扇塚]。

 

花柳徳三郎 扇塚

 

 

 そして芭蕉の句碑。

 

浅草 弁天山 芭蕉 句碑

 

 句碑の表面がすっかり風化してしまい、まったく何が書いてあるのかわからないので、説明看板を見てみよう。

 

浅草 弁天山 芭蕉 句碑 説明

 

 「くわんをん」というのは、おそらく[観音]であり、浅草寺のご本尊である観音様のことであろう。それは本堂のことを指し、その[甍を見やりつ]だと思う。[芭蕉]の[はせを]もそうだが、面白い仮名遣いが見られて勉強になる。

 だが、この日、上野の時の鐘を見てから浅草に来て、ここにある時の鐘を見た私としては、やはり

 

花の雲 鐘は上野か 浅草か

 

の句碑の方が見たかった。

 

 

 さらに[添田啞蝉坊碑]と[添田知道筆塚]もある。

 

添田啞蝉坊碑 添田知道筆塚

 

添田啞蝉坊碑 添田知道筆塚 説明

 

 私は、添田啞蝉坊と添田知道親子の歌や、その繋がりで鳥取春陽などの歌も好きで、よく聴いていた時期がある。(今でも聴くし好きだが以前に較べると落ち着いている)

 

 添田啞蝉坊は曲を作りながら自らも歌い、数多くの名曲を後世に残している。たとえば『ラッパ節』は明治38年に作られたもので全国的に人気を博した大流行歌である。この曲が与論島に伝わって改変され[与論ラッパ節][与論小唄]となり、さらに沖縄民謡の[十九の春]になる。

 また、啞蝉坊の息子の添田知道(添田さつき)も多くの曲を作っているが、代表曲はなんといっても[東京節]であろう。

 

 

 ということで、浅草の弁天山に都々逸塚を訪ね、ついでに弁天山にある建物や石碑について紹介した。

 最後はやはり都々逸で締めたい。[下七]が、かなり字余りで苦しいが……

 

花の雲 鐘もラッパも 鳴らして唄え

 ラメチャンタラギッチョン パイノパイ

 

 

2017.01.25 Wednesday

言うことに無駄のない嫌な奴

JUGEMテーマ:テレビ番組

 

 昨晩、テレビ東京で放送している『チマタの噺』という番組を見た。笑福亭鶴瓶がホストとして様々なゲストを迎え、トークを繰り広げる番組のようだ。この日のゲストは毒蝮三太夫であった。

 

 その番組中、二人の話しの流れの中で、毒蝮三太夫が「こういう都々逸がある」と言って紹介したのが、

 

言うことに 無駄のない 嫌な奴

 

というものだ。
 私は[都々逸]という言葉に敏感になっているのですぐさま反応した。そして思った。

 

「いうことに むだのない いやなやつ
 音数が五五五だ。七七七五になっていないので都々逸じゃないだろ……」

 

 また、毒蝮三太夫が、その都々逸とセットで「別にこういうのもある」と言って紹介したのが、

 

言うことが 無駄だけの 駄目な奴
(私の曖昧な記憶で書いているので少し違うかもしれない)

 

 これも五五五である。

 

 ある部分を省略して言った可能性もある。そこでネット上で検索してみたのだが、それらしい都々逸は出てこなかった。もちろん私の調べ方が悪いことは十分にありうるし、すべての都々逸がネット上にあるわけではないだろう。知っている方がいたら教えていただけるとありがたい。

 

 だが、五五五が七七七五になるには、単に言い回しが変わるだけではなく、新たに何らかのフレーズが加わる必要があるだろう。
 ちょっと考えにくい。もしかしたら川柳と間違えているのではないだろうか、とも思った。

 

 五七五にするなら、こんな感じだろうか。

 

言うことが 無駄ばっかりは 駄目な奴
 

言うことに 無駄がないのは 嫌な奴

 

 二つをセットにすれば、この順番の方がいいと思う。

 

 いや、しかし、毒蝮三太夫は私なんかよりもずっとずっと都々逸にも川柳にも詳しいだろうから、やっぱり都々逸なのかもしれない。
 そこで、強引に都々逸調にしてみる。

 

どんな時でも 言うことすべて

無駄ばっかりは 駄目な奴


どんな時でも 言うことすべて

無駄がないのは 嫌な奴

 

 う〜ん、どうかな……

 

 

2017.01.24 Tuesday

『アルプス一万尺』と都々逸(1/2)/都々逸とは(2)

JUGEMテーマ:都々逸

 

『アルプス一万尺』
『Yankee Doodle』
『雪山賛歌』
『Oh My Darling, Clementine』
『安曇節』
そして、都々逸。

 


夢に見るよじゃ 惚れよがうすい 真に惚れたら 眠られぬ
 

あるいは


思い出すよじゃ 惚れよがうすい 思い出さずに 忘れずに

 

という都々逸がある。
 どちらも有名であり、かなり似ているが内容は少し異なる。夢に見るのと、思い出すの違いであり、けっこう違うといえば違うようにも思う。
 後者の方が見かけることが少し多いようなので、都々逸としてはそちらの方が知られているかもしれない。どちらかがどちらかに影響されて作られたか、あるいは偶然に似たものができたのか、私にはわからない。

 

 個人的には前者の方が好きだ。後者の方が深いことを述べているようにも思うが、ちょっと理屈っぽいような感じを受けてしまった。前者の方が軽さがあって都々逸っぽいように感じる。もちろん私の勝手な感想なので、まったくそう思わない人もいるであろう。

 

 


■『アルプス一万尺』14番

 

 さて、私の好みの問題は置き、ここからが本題である。なぜか前者の都々逸は『アルプス一万尺』の歌詞に挿入されているのである。どうして、一般的に童謡や子どもの手遊び歌として知られる『アルプス一万尺』の歌詞に、都々逸が入っているのであろうか。
 今回は、それを考察することによって[都々逸とは何か][都々逸らしさとは何か]を探り、都々逸学習の一助としたいと思う。


 まず、どちらが先が後かという問題がある。既にに存在していた都々逸を流用して『アルプス一万尺』の歌詞の一部としたのだろうか。それとも逆に『アルプス一万尺』の歌詞の中から抜き出して、都々逸として独立させたのだろうか。

 

 『アルプス一万尺』は、29番まで歌詞のある曲だが、問題の都々逸が歌詞全体の中でどういう位置にあるか明らかにするためすべて引用する。
問題の都々逸は14番である。

 

『アルプス一万尺』
01:アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さぁ踊りましょ
02:昨日見た夢 でっかいちいさい夢だよ のみがリュックしょって 富士登山
03:岩魚釣る子に 山路を聞けば 雲のかなたを 竿で指す
04:お花畑で 昼寝をすれば 蝶々が飛んできて キスをする
05:雪渓光るよ 雷鳥いずこに エーデルヴァイス そこかしこ
06:一万尺に テントを張れば 星のランプに 手が届く
07:キャンプサイトに カッコウ鳴いて 霧の中から 朝が来る
08:染めてやりたや あの娘の袖を お花畑の 花模様
09:蝶々でさえも 二匹でいるのに なぜに僕だけ 一人ぽち
10:トントン拍子に 話が進み キスする時に 目が覚めた
11:山のこだまは かえってくるけど 僕のラブレター 返ってこない
12:キャンプファイヤーで センチになって 可愛いあのこの 夢を見る
13:お花畑で 昼寝をすれば 可愛いあのこの 夢を見る
14:夢で見るよじゃ ほれよが浅い ほんとに好きなら 眠られぬ
15:雲より高い この頂で お山の大将 俺一人
16:チンネの頭に ザイルをかけて パイプ吹かせば 胸が湧く
17:剣のテラスに ハンマー振れば ハーケン歌うよ 青空に
18:山は荒れても 心の中は いつも天国 夢がある
19:槍や穂高は かくれて見えぬ 見えぬあたりが 槍穂高
20:命捧げて 恋するものに 何故に冷たい 岩の肌
21:ザイル担いで 穂高の山へ 明日は男の 度胸試し
22:穂高のルンゼに ザイルを捌いて ヨーデル唄えば 雲が湧く
23:西穂に登れば 奥穂が招く まねくその手が ジャンダルム
24:槍はムコ殿 穂高はヨメご 中でリンキの 焼が岳
25:槍と穂高を 番兵において お花畑で 花を摘む
26:槍と穂高を 番兵に立てて 鹿島めがけて キジを撃つ
27:槍の頭で 小キジを撃てば 高瀬と梓と 泣き別れ
28:名残つきない 大正池 またも見返す 穂高岳
29:まめで逢いましょ また来年も 山で桜の 咲く頃に

 

 字余りの部分はあるが、基本的には都々逸と同じ甚句形式の音数で構成されている歌詞であろう。

 

 14番の歌詞は


夢で見るよじゃ ほれよが浅い ほんとに好きなら 眠られぬ
 

となっていて、問題の都々逸は
 

夢に見るよじゃ 惚れよがうすい 真に惚れたら 眠られぬ
 

なので、厳密にいえば異なるが、これくらいの違いは同じものと考えて差し支えないと思う。

 

 では、はじめに14番の歌詞の位置についてみてみよう。その前の13番と、同じく夢をテーマとしている点から繋がりがあるようにも思える。だが、のどかなお花畑の昼寝を歌った13番と、眠れないほどの強い恋を歌った14番はかなり趣が違うように思える。
 13番と14番は一緒に作られたのではなく、夢をテーマにしているだけの理由で並べて配置されているのではないだろうか。それは12番からも推測される。同じ夢をテーマにしてはいるが12番と13番には内容的な繋がりはない。

 

 また、いくつかの例外はあるが、ほとんどの歌詞が直接的に登山関連のことを歌ったものであるのに対して、14番は山登りと関係がないようにも思う。登山中の宿泊で見た夢のことを歌っていると考えれば関係があることになるが、何かしっくりこないものを感じさせないだろうか。

 

 さらに、1番から29番までの歌詞全体を見ると、登山をテーマとしいているということでの共通性は保持されているものの、歌われている内容の世界観とか連続性に一貫性はない。全体的にまとまりに乏しいように思う。
 

 つまり、『アルプス一万尺』の歌詞は、別々に作られたものが集められて全体の歌詞として構成された、と推測することができないだろうか。

 

 


■西堀榮三郎と京都大学山岳部説

 

 そこで「『アルプス一万尺』の歌詞は誰が作ったのか」を調べてみた。作詞者不詳ということになっているが、京都大学山岳部によって作詞されたという説もある。

 

 同じく登山をテーマにした『雪山賛歌』という有名な曲があるが、その日本語の歌詞は、部員の西堀榮三郎が中心になって京都大学山岳部によって作られたものである。山岳部で登山に訪れた際に、群馬県の嬬恋村で大雪に見舞われて鹿沢温泉で何日も足止めされ、退屈を紛らわせるために作られたものだ。アメリカ民謡の『いとしのクレメンタイン(Oh My Darling, Clementine)』の曲に合わせて作詞された。昭和2年のことである。

 

 ちなみに、西堀榮三郎は後に第一次南極観測越冬隊隊長となる。理学博士で登山家でもある興味深い人物だ。語学にも堪能で、旧制第三高等学校の生徒だった時には、ノーベル賞受賞直後に来日したアインシュタインの通訳も務めているという。

 

 『アルプス一万尺』も、その西堀榮三郎を中心に、京都大学山岳部によって作詞されたという説も主張されているのである。
 

 その説を知った時に、私はなんだか合点がいったような気がした。『アルプス一万尺』の歌詞が全体的にまとまりに乏しいのは、山岳部の色々な部員が作った詞を寄せ集めたものだからではないだろうかと思ったのである。
 『雪山賛歌』は歌詞全体にまとまりがあるので西堀榮三郎個人の力によるところが大きいように思うが、「『アルプス一万尺』は色々な部員の作った都々逸の寄せ集めで、一貫性はあまり考慮されていないのではないか」と推測したのだ。

 

 そして私は勝手に、京大山岳部の部員達が宴会を開き、酔っぱらっていい気分になり、自作の都々逸をうたいあっている光景を思い浮かべてしまった。そして、それを集めたのが『アルプス一万尺』の歌詞ではないだろうかという仮説を立てた。

 

 この仮説では、都々逸として作られたものが歌詞になったと考える。山岳部のさまざまな部員達が作っているので、全体的には登山の都々逸が多くなる。また、宴会中に酔っぱらって作られたので、登山と関係のないものが紛れていてもおかしくはないし、[キジ撃ち]とか[花摘み]という登山家や登山愛好家の隠語を使って楽しんでいる理由も納得できる。

 

 この仮説を発展させ、まとめると、次のようなことになる。

 

 『アルプス一万尺』は、アメリカ民謡で独立戦争の愛国歌『ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)』に、日本語の歌詞がつけられたものである。しかし、その日本語詞は『ヤンキードゥードゥル』の原詞とは関係なく、宴会の場などで作られた都々逸(と言い切るのに問題があれば[七七七五の文句])ではないだろうか。それらが集められて曲の歌詞として編集された。さらに、そこにいくつかの新たな詞(たとえば1番など)が加えられて、『アルプス一万尺』という日本語詞の歌が完成したのではないだろうか。

 

 だが、そんな空想をしていた私に新たなる説が突きつけられた。「『アルプス一万尺』の詞は、長野県民謡の『安曇節』の歌詞を流用している」というのだ。

 

 なんということであろうか。それが本当ならアメリカ民謡に日本の民謡の歌詞がつけられていることになるではないか。
 そして、私の立てた仮説[京大山岳部の宴会都々逸説]は、ここにあっさり否定されたのであろうか。

 

 

<『アルプス一万尺』と都々逸(2/2)>へ続く

 

 

2016.12.24 Saturday

都々逸の数え方(都々逸の助数詞)と‥‥

JUGEMテーマ:日本語

 

■都々逸をどう数えるか

 

 先日、Twitterで都々逸の数え方について少し話題になっていた。短歌は一首二首と数え、俳句は一句二句と数えるが、都々逸の場合はどう数えるのか。つまり都々逸の助数詞は何かという問題である。
 これについては私も以前から気になっていたので、少し参加して呟かせていただいた。

 

 さて、この問題について、中道風迅道著『新編どどいつ入門』276ページのコラムには下記のように書いてある。

私はラジオ放送の指導では「一句」と言っているが、他の吟社では「一章」と呼んでいるところも多い。歴史的に見ても、明治期には「首」が大半であるし、大正、昭和初期の各種「都々逸・俚謡」を検討すると「首」「句」「章」が混在している。

 つまり日本語として都々逸の助数詞に定まったものはないということだ。統一されていないということになる。

 こういうところにも、都々逸が置かれた状況が表れているようにも思うが、それはさておき、統一されていないと面倒なことはけっこうある。

 

 私は「それぞれの人が自分の考えで好き勝手な助数詞を使えばいいじゃないか」と思わなくもないが、それでは、やはり問題だろう。統一されていないと、別の助数詞を使う人とのやりとりで混乱が生じたり、何かとやりにくいであろう。とりあえず[一つ二つ]で数えることはできるが、助数詞が決まっていないと日本語として何かと不便である。そのため、基本的には統一された助数詞を決めることが望ましいと思う。

 だがしかし、何に統一するかは大問題だ。

 

 都々逸も[句]か[首]にしてしまえばいいという考えもあるだろう。


 俳句を一句二句と数えることは[俳句]という呼び名からしても、まったく違和感なくすんなり受けいれられる。だが都々逸を[句]で数えることに違和感はないだろうか。これは個人の感覚の問題なので、何ともいえないが、少なくとも[句]にする理由は見あたらないように思う。

 

 短歌の[首]はどうだろうか。短歌を[首]で数えることになった理由について、先ほど引用した同書同コラムには、朝日新聞社発行の『日本語相談・二』で、大岡伸氏が

中国の詩(漢詩)で用いた助数詞を、和歌にそのまま適用したのです

 と述べていることを紹介している。

 短歌を[首]で数えるのは、漢詩をまねてのことのようだ。しかし、なぜ[首]なのかはわからない。漢詩の助数詞が[首]である理由がわからないので、短歌を[首]で数える理由も漢詩を真似たという以上のことはわからない。そうなると、都々逸を数える助数詞として相応しいかどうかもわからない。

 

 だが、明治期には多く使われていたという実績もあるので[句]か[首]か、どちらかといえば、[首]になるだろうか。

 

 これらに対して[章]である。調べてみると[都々逸しぐれ吟社](昭和12年から続く、現在は東京で唯一の都々逸の吟社)では、確かに今も[章]を使っているようだ。ただ、どういった理由で[章]を使うようになったのかはわからない。一つには、俳句や短歌とは違う都々逸の独自性を主張する意味があるのではないかと思うが、これはあくまで私の推測にすぎない。
 明治期には[首]で数えることが大半であったにも関わらず、[章]を使うようにした背景には、きっと大きな理由があるのだろうと思う。知っている方がいたら教えていただけるとありがたい。

 

 また他に、[節][唄][曲][詞]などなどの候補も考えることはできるが、今までに使われたものとしては、主に[首][句][章]の3つに絞られているようなので、他のものでは不都合な理由があるのだろう。

 


■都々逸を作ることを何と言うか

 

 都々逸の数え方が統一されていないことは以上、見てきた通りであるが、都々逸を作ることも何と言うか決まっていないようだ。
 

 俳句を作ることは[句作]や[作句]とも言い、短歌は[作歌]や[歌作]と言うこともあるようだが、都々逸でこれにあたるものは何だろうか。[作都]や[都作][作逸][逸作]とは言わないと思う。少なくとも今まで私は見たことはないし、もし言ったら変だろう。

 

 また、これは私の個人的な嗜好かもしれないが[都々逸を詠む]という表現について違和感を感じてしまう。短歌や俳句は[詠む]のであろうが、都々逸の場合は違うような気がしている。
 都々逸は詠むのではなく[うたう]ものなのではないだろうか。もっとも[詠]という字は[詠う(うたう)]とも読むので大差はないと言われればそうかもしれないが、私の感覚では[詠む]と[うたう]はかなり違う。

 

 都々逸は[詠む]のではなくて[うたう]ものだと言いたい。だが、この場合の漢字はどうするかには迷いがある。
 

 都々逸の結社を[吟社]と言い、都々逸を投稿することを[投吟]と呼ぶのであれば、[吟う]と書いて[うたう]でもいいように思うが、[吟]は作るという意味よりも声として音に出して吟じる印象が強い。
 俗謡や民謡の[謡]で[謡う(うたう)]にも惹かれるが、そうすると[能]の[謡(うたい)]と重なってしまい不都合だろうか。
 私としては[唄う]が一番しっくりくるように思うが、これもやはり、作るという意味よりも声に出して唄う印象が強いだろうか。そうなると残りは、やはり[詠う(うたう)]だろうか。決めあぐねる。

 

 だがもし、[唄う]か[詠う]にするなら、[作唄(さくばい)]か[作詠(さくえい)]というのも、結構いける言葉のようにも思える。さらに、都々逸の数え方も[一唄二唄(いちばい にばい)]か、[一詠二詠(いちえい にえい)]でもいいような気がしてきた。

 

 

2016.12.14 Wednesday

都々逸とは(1)

JUGEMテーマ:都々逸


■都々逸とは何かについて考える

 

 見よう見まねで都々逸を(たまに)作るようになって約1年。このブログを開設し、都々逸について少しは学びながら(そこそこ)作るようになって10箇月になる。そこで、ここらでひとつ「都々逸とは何か」について考えてみたいと思う。別な言い方をすれば、まだ都々逸が何かわかっていなので、それを探ろうということである。

 

 音数については、既に見てきたように次の決まりがある。

 

 都々逸は七七七五の音数律でできていてる。その七七七五は(三・四)(四・三)(三・四)(五)で構成される。最初と三番目の[七]は(四・四)で八音になってもよい。二番目の[七]は(二・五)なってもよい。また、先頭に[五]が加わり[五七七七五]等で構成される[五字冠り]と呼ばれる形の都々逸もある。

 

 しかし、当然ながら、音数律が都々逸と同じであれば、すべての文句が都々逸になるわけではない。
 同じ七七七五で構成されていても、都々逸だと呼べるものとそうでないものがあるはずだ。それを分ける基準はいったいどこにあるのか。


 多くの人が明確に「これは都々逸だ」と思えるような七七七五もあれば、逆に「都々逸ではない」と判断できる七七七五もあるだろうし、判断に苦しんだり意見が割れる七七七五も必ずあると思う。

 

 例えば

 

いちごはストップ みかんはちゅうい メロンは安全 さあ守ろう

 

これは昭和41年の「交通安全スローガン」で佳作に選ばれたものだ。
 

 最後の[さあ守ろう]が6字であるが、音数としては[5音]にしてもいいだろうと思う。[さあ]の[あ]を小さい[ぁ]にするのではなく、最後の[う]を発音しないことにする。[さあ守ろ]あるいは[さー守ろ]にするのである。
 これで(四・四)(四・三)(四・四)(五)となり、都々逸と同じ音数律になる。しかし、だからといって都々逸にはならないと思う。内容的に都々逸ではないからだ。

 

 どうして内容的に都々逸でないのか、理屈で説明するのは難しい。説明をしても、その理屈を誰もが納得するとは限らないからだ。結局のところ感覚的に都々逸ではないと勝手に判断しているにすぎないことになってしまうだろう。

 

 決して「スローガンや標語は都々逸ではない」と言っているわけではない。スローガンや標語であっても、都々逸らしさが感じられれば[スローガンや標語であると同時に都々逸でもある]と言えるものもありうると考えている。
 例えば、歴史的名作ともいえる有名な交通安全標語に[せまい日本 そんなに急いで どこへ行く]というものがあるが、これを借用して少しだけ変えさせていただき

 

せまい日本 それだけ急ぎゃ

 すぐにあの世へ 行けるはず

 

せまい日本 それだけ急ぎゃ

 すぐにあの世へ 着けるはず

 

とすれば、出来不出来は別として、都々逸っぽくなるのではないだろうか。同時に、速度違反運転を戒める交通標語としても成り立っていると思う。当局の採用不採用は別としてだ。
 

 もっとも、私が都々逸っぽくなったと思っても、この文句を都々逸だと認めるかどうかは、人それぞれであろう。都々逸かどうかの境界線は曖昧だ。判断できる基準が明確にはないことはわかっている。だが、その境界を考察することによって「都々逸とは何か」が、ぼんやりとは見えてくるのではないだろうか。

 


■都々逸との境界について考える

 

ザンギリ頭を 叩いてみれば 文明開化の 音がする

 

 私は以前、これを都々逸だと思っていた。音数律はもちろんのこと、内容的にも明治初頭の世相を風刺した都々逸だと考えていたのである。ところが、この文句は全体の一部であって、この前に2つのフレーズがあることを後に知った。

 

半髪頭 はんぱつあたま を叩いてみれば 因循姑息 いんじゅんこそく の音がする
総髪頭 そうはつあたま を叩いてみれば王政復古の音がする

 

である。

 

 半髪頭というのは、文字通り半分は剃り、半分だけ髪が残っているヘアースタイルだ。つまり、半分を月代さかやきをとして剃り上げ、残った半分の髪だけで髷を結う、一般的にチョンマゲと言われる髪型のことである。これに対して、総髪頭というのは、髪を剃らずにすべての髪で髷をを結ったヘアースタイルのことを指す。こちらも文字通り、総ての髪の頭という意味である。ちなみに全部剃るのは剃髪だ。

 

 チョンマゲ頭は旧体制の象徴で、江戸幕府の治世のことをたとえているのであろう。
 総髪は、半髪が一般化する以前の日本の男性の髪型であり、また半髪が一般化した後も神官や学者がしていた髪型である。だが、この場合は幕末に勤王の志士の間で流行った総髪のことを言っているのであろう。(佐幕派にも総髪はいたようだが)
 ザンギリ頭は、もちろん明治になって髷を落とした男性の髪型である。

 

 揃えるために髪型の名称をすべて漢字にして古い順に並べると、

 

半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする
総髪頭を叩いてみれば王政復古の音がする
散切頭を叩いてみれば文明開化の音がする

 

になる。

 

 因循姑息というのは古い習慣やしきたりに囚われて、その場しのぎに終始することである。つまり、最初の文句は[チョンマゲ頭は、因習にとられて前に進まないその場しのぎの象徴だ]というような意味になろう。
2番目は[総髪はチョンマゲより進んだ王政復古の象徴だ]となる。そして、[散切頭こそ新しい時代の文明開化の象徴だ]というのが最後の文句の意味であろう。

 

 なんのことはない、明治4年に政府が発した断髪令を実行していくためのプロパガンダである。ザンギリ頭を推奨し広めるためのキャンペーンソングのようなものだろう。

 

 西洋の猿真似でザンギリ頭になんかにして、文明開化などと浮かれている世相を皮肉った都々逸かと思っていたら、そうではなかった。まったく逆の内容であった。そうなると、これは都々逸ではなくなる。色々と意見はあるだろうが、私はそう思ってしまった。

 

 なぜ、都々逸ではないと思ってしまったのだろうか。単純にプロパガンダやキャンペーンソングだからということではないと思う。あくまでも内容の問題だ。ただどうにも、そう思ってしまった理由を上手く説明できない。

 

 [ザンギリ頭を〜]の文句を始めて見たのは、中学か高校かの日本史の授業だったと思う。[ザンギリ頭を〜]だけで、他の2つは教科書にも授業にも出てこなかったような気がする。気がするというだけで確かな記憶があるわけではない。もちろん、これが都々逸だと教わった記憶もない。都々逸だと勘違いするようになったのはもっと後のことである。その当時の私は、明治初頭の流行語の一つくらいに思っていたと思う。

 

 授業で教師が、この文句の意味をどう説明したかは覚えていない。ただ私は[西洋の猿真似でザンギリ頭なんかにして、文明開化などと浮かれている世相を皮肉っている言葉]みたいな感じに解釈していたと思う。もしかしたら教師は別の正しい説明をしてくれていたかもしれないが、それは覚えていない。

 

 そもそも[頭を叩いたら文明開化の音がする]という表現は滑稽で、諧謔的な印象を与えるものではないだろうか。だから、その印象に引きずられるので、まさかザンギリ頭と文明開化をまともに真っ直ぐに推奨しているとは思えなかったのだ。
 漫才師が舞台上で相方の散切り頭を叩いて「文明開化の音がするな」と冗談を言っているような光景を思い浮かべてしまう。もちろん猿真似の西洋化を揶揄して笑いにしているのである。それを聴いた観客が手を叩いて笑う場面が思い浮かぶ。

 

 そんな感じの都々逸だと思っていたのに驚きである。まるで、もの凄く素敵だと思っていた女性が、実はろくでなしだったと知ったくらいの驚きだ。その、ろくでなし加減をつい知りたくなってしまいそうなくらいの驚きである。

 

 私は、前についているその2つのフレーズを知ったせいで[ザンギリ頭を〜]を、都々逸ではないと思ってしまった。だが、それでもなお都々逸であると考える人もいるであろう。都々逸なのか、そうでないかの境界はどうにも曖昧なものだ。ある女性を、素敵だと思うか思わないかの境界も、人それぞれで曖昧であるように。

 


■都々逸と民謡について考える

 

 ここでは、とりあえず[民謡]という言葉を使ってしまうが、それが適切なのかどうかはわからない。民謡という言葉は明治以後にドイツ語の[Volkslied]の翻訳語としてできたようなので、そんな翻訳語を使うよりも、それ以前から適切な言葉があるならそれを使いたいと思う。
 しかし、どの言葉をどう使ったらよいのか、明治以前はどう使われていたのか、今の私にはよくわかっていない。俗謡・俚謡・小唄・歌謡・はやり歌・などなど‥‥‥‥そんなこともわからず困ったものだ。どなたかに日本の伝統的な民俗音楽の呼称の正しい使い分けを教えていただきたい。

 

 しかたがないので、民謡という言葉を使うことにする。使わないと何もできないからだ。

 

 既に見てきたように(過去記事[神戸節と都々逸の誕生/都々逸の歴史(1) (12/09)])、都々逸は民謡から生まれたものだ。潮来節からよしこの節が生まれ、よしこの節が名古屋に伝わって神戸節を生み、そこから都々逸が生まれた。だから民謡と都々逸の関係は深く強いと考えるのが素直であろう。
 都々逸が、明治・大正・昭和の時代に、唄いものを離れ文芸作品を目指した流れがあることも少しは知っているが、それはひとまず棚に上げて、今は民謡と都々逸について考えてみたいのである。今はそこに興味がある。

 

 民謡の歌詞を見ていると、良い悪いとはまったく関係なく、いかにも都々逸っぽいものと、まったく都々逸とは関係ないようなものがある。(ここで対象にしているのは、都々逸と同じ五七七七の音数律でできている甚句調の歌詞の民謡に限ってのことであり、他の民謡については当面の間は対象外にしておく)

 

 たとえば、神戸節は直接的に都々逸の元になった民謡であり、ドドイツ節とも言われるくらいだから、どの歌詞も都々逸っぽい感じがある。しかし、阿波踊りのよしこの節で、前回取り上げた

 

阿波の殿様 蜂須賀様が 今に残せし 阿波踊り
笛や太鼓の よしこのばやし 踊り尽きせぬ 阿波の夜

 

の部分に、私は都々逸っぽさを感じない。もちろん感じ方は人それぞれだし、良い悪いの問題ではない。都々逸らしさとは何かを考えるために私が勝手な偏見で判断しているだけである。

 

 民謡は、都々逸っぽい歌詞とそうでない歌詞が混在している。すべての民謡がそうだというわけではなく、混在しているものが目につく。たとえば[ソーラン節]を例に挙げてみる。

 

沖のカモメに 潮時問えば わたしゃたつ鳥 波に聞け
もしくは
ニシン来たかと カモメに問えば わたしゃたつ鳥 波に聞け

 

 この歌詞に、私は都々逸っぽさを感じない。しかし、

 

今宵一夜は 緞子の枕 明日は出船の 波枕

 

には、かなり都々逸っぽさを感じがしてしまう。
 緞子の枕というのは高級な枕のことだろうから、要するに遊廓の枕であろう。今夜は遊廓で贅沢に楽しんで高級な寝具で寝るが、明日からは漁のため不自由で厳しい船上生活に入る。その今日と明日以降の、環境の激変を枕の違いで表現し、さらに漁師の威勢の良さをも表した憎い文句だと思う。

 また、

 

男度胸は 五尺の体 どんと乗り出せ 波の上

沖のカモメの 鳴く声聞けば 船乗り稼業は やめられぬ

 

にも都々逸っぽさを感じないが、

 

沖のカモメが もの言うならば 便り聞いたり 聞かせたり

 

には、都々逸っぽさを感じる。

 

 などと、私がどう感じるかを書いて「それに何の意味があるのか」という気もする。「そんなことは自分の胸に秘めておけばいいだろう」と思わなくもない。
 だが、このカテゴリー[都々逸学習メモ]はメモ帳である。都々逸を学ぶための書き留めである。

 

 都々逸らしさを感じるものと、そうでないものを区別していくことは、つまるところ、私がどういう都々逸を作りたいと思っているのか明らかにする作業である。今になってそう気がついた。
 自分自身がどういう都々逸を作りたいのかを探り、自分自身に対して明らかにしようとする。それこそ都々逸の学習というものであろう。

 


 都々逸と民謡ということで大事なことを思い出したので最後にメモしておこう。

 現時点で私が一番好きな都々逸

 

恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ螢が 身を焦がす

 

は、元は民謡の歌詞として、古くから歌われてきたようである。時代によって色々な民謡に取り込まれては節を変え、文句も少し変えながら歌い継がれてきたらしい。そして都々逸になり、また、今のこの文句で民謡の歌詞として唄われることもあるようだ。
 

 そういう都々逸のあり方も素晴らしいのではないだろうか。古く忘れ去られたような民謡の歌詞の中から、これはというものを見つけ出し、それを都々逸にして現代に蘇らせる。なんてこともやってみたいものだ。

 

 

2016.12.09 Friday

神戸節と都々逸の誕生/都々逸の歴史(1)

JUGEMテーマ:都々逸

 

 都々逸は[神戸節(ごうどぶし)]から生まれたというのが現在の通説のようである。その神戸節が生まれたのは享和の頃というから、江戸時代も後期に入ったあたりである。名古屋は熱田の宮の宿、神戸(ごうど)という花街で生まれ流行り出したようだ。

 神戸節は「ドドイツドイドイ」という囃子言葉で唄われていたため[ドドイツ節]とも呼ばれるようになった。また、江戸やその他へ伝わり[名古屋節]とも呼ばれた。

 

 これに、初代の都々逸坊扇歌がアレンジを加えて流行らせたものが、今の都々逸の始まりのようである。つまり、都々逸坊扇歌が創始したから都々逸なのではなく、都々逸坊と名乗って都々逸を広めたのが都々逸坊扇歌なのである。

 都々逸坊扇歌は、文化元年(1804年)に生まれ、嘉永5年(1852年)に没したと伝えられる。

 

 都々逸という漢字は、ドドイツという音への当て字である。ひらがなで[どどいつ]と表記することもあり、[度々逸]や[百々一][都々一]など、別の字を当てることもあったようだ。音に当てたもので、意味があるわけではないので表記漢字に決まりはないのである。

 本ブログでは基本的には[都々逸]を使っているが、他のものより多く見かけるようなので使っているだけで、それ以上の意味はない。
 

 ただ、都々逸を世の中に定着させるためには統一した方がいいと個人的には思う。いずれその内に考察したいと思うが[どどいつ]のバラバラな表記に加え、明治から昭和の初期くらいにかけては、[俚謡正調]やら[情歌]やら[街歌]など色々な呼び名が提唱され使われてきた。そのそれぞれには崇高な理念や高邁な理想があってのことであろうが、今日の都々逸の衰退をみると、呼び名の不統一もその一因になっているようにも思えてならない。

 

 以上、余計なことも書いてしまったが、極めて大雑把に都々逸の誕生について説明すればこのようになるであろう。

 


■神戸節

 

 さて、都々逸を生み出した神戸節であるが、ありがたいことに音声で復元されている。
 復元の経緯や神戸節についての説明は、下記に埋め込んだYouTubeの動画を、YouTubeのサイトに行って見れば記載されているのでそちらを見てほしい。

https://youtu.be/-wAnO-KdZpU

 

 神戸節(ごうどぶし)/桃山晴衣

 

この動画から唄の文句を書き出してみたのが下記である。

1)お亀買ふ奴天窓(あたま)で知れる油つけずの二つ折れ

 

其奴はどいつじゃ其奴はどいつじゃ

 

2)華表(とりい)ふたつ越えて宮まで行けば尾のない狐に化かされた

 

其奴はどいつじゃ其奴はどいつじゃ

 

3)宮の宿(シュク)から雨降る渡り濡れて行くぞえ名古屋まで
 

ドドイツドイドイ浮き世はサクサク

 

4)おやせなされた三日月さまよやみのあげくのはずじゃもの
 

ドドイツドイドイ浮き世はサクサク

 

5)かわす枕がもの云うならばわたしゃはづかし床のうち
 

其奴はどいつじゃ其奴はどいつじゃ
ドドイツドイドイ浮き世はサクサク


よくわからない部分もあるが、とりあえずわかる範囲で解釈に取り組んでみる。
(この記事のカテゴリーは[都々逸学習メモ]で、あくまでも私の学習過程上のメモである)

 

 

1)お亀買ふ奴 天窓(あたま)で知れる 油つけずの 二つ折れ

其奴はどいつじゃ 其奴はどいつじゃ


[お亀]とは、宮の宿(東海道の最大の宿場町)の飯盛女のこと、つまり宿場女郎のことである。
[天窓]は、この場合は人間の頭のことのようだ。
[油つけずの 二つ折れ]は、そういうヘアースタイルのことだ。[油付けず]というのは整髪油をつけていないという意味であろう。[二つ折れ]というのは、髷を二つに折った髪型らしい。
 具体的にどういうヘアースタイルなのか、私にはよくわからない。また、それが何を表しているのかという点についても、解釈は色々できる。整髪油もつけないで二つに折っただけの[粗野な髪型]という意味なのか、逆にそれが当時流行の[お洒落な髪型]なのか、[遊び人の典型的な髪型]なのか、もっと別の意味なのか。残念ながら当時の風俗について知識がないのでわからない。

 

 髪型で何を言い表そうとしているかで、この唄の意味は違ってくるが、とりあえずわかる範囲でまとめると、

宿場女郎を買う奴は髪型でわかる。整髪油をつけずに髷を二つに折った髪型をしてるからだ。
ということになるだろう。

 

[其奴はどいつじゃ 其奴はどいつじゃ]は囃子言葉ではあるが、そのままの意味で受けとっていいのではないかと思う。
そいつは誰だ、そいつは誰だ

 

 

2)華表(とりい)ふたつ越えて 宮まで行けば 尾のない狐に 化かされた

[華表]は「とりい」と読んでいるので鳥居のことだと思うが、神社の鳥居というよりも、場所と場所を仕切る目印のようなものではないかという気もしているが、どうだろうか。
[宮まで行けば]の宮は、宮の宿のことであろう。宿場女郎がたくさんいた宮の宿場のことだ。
[尾のない狐]は、よく使われる表現なのでわかるであろう。狐のように人(男)をだます女のことで、人間だから尾のない狐と言っているのである。

 

つまり、

華表を二つ越えて宮の宿へ行ったら、あやしい宿場女郎にだまされ(て金品を巻き上げられ)た。

ということであろう。

 

もしかしたら神社のお宮と掛けているかもしれない。
そうだとしたら、

鳥居を二つ越えてお宮にお参りに行ったら、お狐様のニセモノにだまされた。
というのを表向きの意味にして、暗に宿場女郎にだまされたことを表現しようとしているのかもしれない。

 

 

3)宮の宿(シュク)から 雨降る渡り 濡れて行くぞえ 名古屋まで

ドドイツドイドイ 浮き世はサクサク


 これは、

宮の宿を旅立とうとしたら雨が降ってきた。雨が降ると七里の渡し舟が出ないので、美濃路で名古屋を通って濡れながら歩いていこう。

という意味になろうかと思われる。

 

[七里の渡し]とは、宮の宿から桑名宿へ渡る舟の発着場、渡船場である。
[美濃路]は、宮の宿から名古屋を経由して、中山道の垂井宿へ繋がる脇往還である。七里の渡しの海路を避け、陸路を選ぶ場合にも利用された。

 

 ただ、それだけだと面白くないようにも思うので、別の解釈があるのかもしれない。「濡れて行くぞえ」あたりに何か隠された意味があるのだろうか。わからない。

 

[ドドイツドイドイ 浮き世はサクサク」は、囃子言葉なので意味はあまりないと思う。
[ドドイツドイドイ]は[其奴はどいつじゃ]の囃子が変化したものかもしれない。

[サクサク]も意味はないと思うが、強いていえば[さっさと、さっさと]というような感じだろうか。

 

 

4)おやせなされた 三日月さまよ やみのあげくの はずじゃもの
 

[おやせなされた]というのは痩せるの他に、月の満ち欠けの、欠けのことで、満月が欠けて三日月になったことを言っているのではなかろうか。
[やみのあげくの]の[やみ]は、[闇]と[病み]を掛けているのではないだろうかと推測する。

 

つまり、
お月様は痩せて三日月になってしまわれた。病をしていらしたはずだから。

という意味と、

お月様が欠けて三日月に見えるのは、闇のずっと向こう(地球からずっと離れた所)にいらっしゃるはずだから。

を掛けているのかもしれいない。

 

ちなみに、
やつれさんした 三日月さんよ お前そのはず やみあがり
という都々逸があるが、この神戸節と関係があるのかどうかはわからない。

 

 

5)かわす枕が もの云うならば わたしゃはづかし 床のうち

 

枕を交わした時のことを見ていた枕が、もし喋れるなら、床の中でしたことを吹聴されてしまいそうで、私は恥ずかしい。
ということだろうか。
 この解釈だと当たり前すぎる気もするので、別の解釈があるのかもしれない。ただ、都々逸の源流として考えると面白いし、個人的には都々逸っぽい艶気のある文句だと感じる。

 

 


■潮来節〜よしこの節〜神戸節(七七七五調・甚句調・近世調)

 

 以下は、別の場所に書くことかもしれないが、いずれ書き直すこととして、今はここにメモしておく。

 

 都々逸を生んだ[神戸節]は[よしこの節]から生まれ、よしこの節は[潮来節]から生まれたようである。潮来節をさらに遡ると際限がなくなるので、今はここで止め、潮来節から後について、調べたことをメモしておく。
 あくまでも、いずれ書き直すためのものなので、脈絡のないメモであることをお断りしておく。

 


[潮来節]

 

 潮来節は、今の茨城県、常陸国の潮来村から起こり、江戸時代後期に全国的に広まった。
 元歌とされる有名な文句として下記のものがある。

 

潮来出島の まこもの中に あやめ咲くとは しほらしや


潮来出島の まこもの中に あやめ咲くとは つゆ知らず


 潮来節は相当に流行し、十返舎一九や小林一茶などの作品にも出てくるようである。また日本各地に数多くの俗謡を派生させた。その中の一つが[よしこの節]である。

 


[よしこの節]

 

 よしこの節がどのように生まれたのかはわからないが、何といっても有名なのは[阿波踊り]の歌として伝えられていることである。
 よしこの節が名古屋の宮の宿に伝わり[神戸節]を生み、そこから都々逸が誕生した。

 


 ここで都々逸の音数七七七五について考えてみたい。
 神戸節の音数も、もちろん七七七五であるが、七七七五の歌はもの凄く多い。

 

 俗謡や民謡と呼ばれるものの種類を音数で分けると、

[七七七五]の[甚句調(じんくちょう)]
[七五七五]を繰り返す[七五調(しちごちょう)]
[七七七七]を繰り返す[口説調(くどきちょう)]

になるようだ。
 

 七七七五の甚句調は近世小唄調とも言われ、今に伝わる俗謡はこの形式が圧倒的に多いようである。また、七五七五を今様調と呼んだ場合は、七七七五を近世調と呼び対比させることもあるようだ。七五七五よりも、七七七五の方が新しい形態ということになるのだろう。

 

 都々逸の七七七五もこの流れの中にあると考えるべきである。いや、確実にその流れにあることは間違いない。

 

 潮来節の、


潮来出島のまこもの中に あやめ咲くとはつゆ知らず
 

は、
(いたこ・でじまの)(まこもの・なかに)(あやめ・さくとは)(つゆしらず)
なので、都々逸とまったっく同じ(三・四)・(四・三)・(三・四)・(五)である。

 逆だ。成立した順序からいって、都々逸が潮来節と同じ七七七五と言うべきであろう。

 

 阿波踊りで知られる[よしこの節]は、はじめ

踊る阿保に見る阿呆 同じ阿保なら 踊らにゃそんそん

に着目してしまい「七七七五になっていないではないか」と思ってしまったが、この部分は唄囃子と呼ばれるところであって歌詞ではない。歌詞は、

 

阿波の殿様 蜂須賀様が 今に残せし 阿波踊り

 

笛や太鼓の よしこのばやし 踊り尽きせぬ 阿波の夜

 

の部分である。

 

(あわの・とのさま)(はちすか・さまが)(いまに・のこせし)(あわおどり)
(ふえや・たいこの)(よしこの・はやし)(おどり・つきせぬ)(あわのよる)

きちんと(三・四)・(四・三)・(三・四)・(五)になっている。

 


以上のメモに、さらに調査を加えて、俗謡・民謡と都々逸の関係について整理してまとめたいと思っているが、いつのことになるやら‥‥‥‥

 

 

2016.03.16 Wednesday

都々逸の音数/都々逸の基礎(1)

JUGEMテーマ:都々逸

 

都々逸は、七七七五の字数よりなる。
最初の七を「上七」、次の七を「中七」、次の七を「下七」、最後の五を「座五」と呼ぶ。

「上七」「中七」「下七」「座五」である。
ただし、人によっては「初句」「二句」「三句」「四句」と呼んだり、起承転結に倣って「起句」「承句」「転句」「結句」と呼ぶ人もいる。

 

七七七五の字数なら、どうなってもいいわけではなく、
上七は(三・四)の七、中七は(四・三)、下七は(三・四)、座五(五)にする。これが原則である。
【例】
[恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす]
(こいに・こがれて)(なくせみ・よりも)(なかぬ・ほたるが)(みをこがす)

(三・四)(四・三)(三・四)(五)

 

ただし、上七と下七は(四・四)になってもよい。
【例】
[三千世界の カラスを殺し 主と朝寝が してみたい]
(さんぜん・せかいの)(からすを・ころし)(ぬしと・あさねが)(してみたい)
(四・四)(四・三)(三・四)(五)

 

中七は(二・五)なってもよい。
【例】
(あきらめ・ましたよ)(どう・あきらめた)(あきらめ・きれぬと)(あきらめた)
(四・四)(二・五)(四・四)(五)

 

七七七五の頭に五を加えて、五七七七五という形式もあり、これは「五字冠り」と呼ばれる。
【例】
[唐傘の 骨の数ほど 男はあれど 広げてさすのは 主ひとり]
(からかさの)(ほねの・かずほど)(おとこは・あれど)(ひろげて・さすのは)(ぬしひとり)
(五)(三・四)(四・三)(四・四)(五)

 

また、都々逸の場合、最後を(つまり座五を)連用形で終るのを「川柳止め」といって嫌う。
なので、絶対にやってはいけないというわけではないようだが、連用形で終えるのは原則的にやめたほうがいいようだ。

【例】
役人の子はニギニギをよく覚え

 

 

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