2017.05.22 Monday

こうしてこうすりゃ こうなるものと 知りつつこうして こうなった

JUGEMテーマ:都々逸の名作に真似て学ぶ

 

 

 今回の都々逸も、過去の記事で扱った(http://shaba.jugem.jp/?eid=229)

[あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬと あきらめた]

と、同様に、初代都々逸扇歌の作だとする説もある。何となく似ている面もあるように思う。

 

 

こうしてこうすりゃ こうなるものと 知りつつこうして こうなった


 一般的には、「こうなりたくはなかったが、こうなってしまった」という後悔の念が込められていると解釈されるだろう。そしてそれは、「こうなるとわかっていたのに、自分を制御できずに、こうしてしまった」結果である。自業自得というわけだ。だが、この望まない結果を招いたことを後悔しながらも、どこかで少し満足もしているような心の有り様が感じられるのではないかと思う。

 

 もちろん、そう解釈しなければいけないというわけではない。具体的なことは述べずに、聴く人の想像にまかせるという手法なのだから、聴いた人が自分勝手に自分の思いを当てはめて解釈すればいい。

 

 また「何について唄っているのか」についても、各人が思いおもいに想像すべきことだが、都々逸が情歌と呼ばれるところから、恋愛を主題にしていると考えてみるのもいいだろ。

 

 そうなると「後悔すると知っていたのに、自分を制御できずに落ちてしまった恋愛」について唄っていることになる。
 そういう恋愛にも色々あると思うが、すぐに思い浮かぶのは、惚れてはいけない相手との恋愛、妻子ある人との道ならぬ恋路、あるいは他人の花に掛けてしまった深情け、であろうか。この事態がさらに進行すれば心中ものにも発展しかねない物語だ、と想像をたくましくしてみてはいかがだろうか。

 

 恋愛に限らず、「こうなりたくないので、こうしたくなかったが、こうしてしてしまい、こんなことになってしまう」ことは、人生にたくさんあるわけで、そうなってしまう人間の弱さを唄って笑いつつ、そんな人間達を応援する都々逸であるとも考えられる。


 では、今回もこの都々逸に学び真似て、私の都々逸を作ってみるわけだが、具体的な内容がないゆえに、真似すると二番煎じ感が強くなりすぎる。もっとも、真似をすることを前提にしている記事であり、「二番煎じをする」と宣言しているようなものだから、それでかまわないわけだが、ちょっと別の要素も加えてみたい。

 

何が何して 何とやら
という七五調の文句がある。

 

 浪曲師が稽古などに使うもので「何が何して何とやら」で始めて、具体的な内容はない歌詞を唄って声の調子を整えたりするらしい。

 

 これも混ぜ込みながら、今回の名作都々逸に学んで真似て自作してみる。

 

なにをなにすりゃ なんとかなるが
  なにでなにして なんになる

 

 二番煎じ感は拭えないが、それは気にしないことにしておく。
 さらに少し毛色を変えたものをもう一つ。

 

あれのあそこが あんなにああで
 あれがああなり あれしたい

 

 

2017.05.02 Tuesday

八十八夜に茶摘み歌

 

 

 本日は八十八夜である。立春から数えて八十八日経ったということになる。八十八夜というと、すぐに唱歌の『茶摘み』が思い出される

夏も近づく 八十八夜
野にも山にも 若葉が茂る
あれに見えるは 茶摘みぢやないか
あかねだすきに 菅の笠

 

日和つづきの 今日このごろを
心のどかに 摘みつつ歌ふ
摘めよ摘め摘め 摘まねばならぬ
摘まにゃ日本の 茶にならぬ

 この歌は、作詞者も作曲者も不詳で、歌詞のおよそ半分は京都に伝わる茶摘み歌を流用して作られたという説がある。各地に伝わる歌詞には多少の違いがあるようだが、一つ挙げれば、

 

[向こうに見えるは 茶摘みじゃないか あかねだすきに 菅の笠]
[お茶を摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにゃ日本の 茶にならぬ]

 

である。

 

 言うまでもなく、都々逸と同じ甚句調だ。
 上の歌詞は(4・4)(4・3)(3・4)(5)
 下の歌詞は(3・4)(4・3)(3・4)(5)

 

 上の歌詞ももちろん良い文句だが、下は非常に調子がよく、色々な替え歌を容易に作り出せる便利な歌詞だと思う。

 

 

花よ咲けさけ 咲かねばならぬ

咲かにゃ日本の 春は来ぬ

 

雨よ降れふれ 降らねばならぬ

降らにゃ日本の 稲ならぬ

 

月よ出よでよ 出でねばならぬ

出ねば月見にゃ なりはせぬ

 

星よ降れふれ 降らねばならぬ

降らにゃ夜空に 囁けぬ

 

風よ吹けふけ 吹かねばならぬ

吹かにゃ木の葉も 舞い散らぬ

 

雪よ降れふれ 降らねばならぬ

降らにゃ日本の 水枯れる

 

 

と、とりあえず自然現象をテーマに春夏秋冬の替え歌を作ってみた。

 

 酒で作ると、

 

酒は飲めのめ 飲まねばならぬ

飲まにゃ日本の 夜は明けぬ

 

 なんだか『黒田節』と幕末の志士の意気込みを合わせたような感じになってしまった。

 

 ちなみに『黒田節』は、

酒は飲めのめ 飲むならば
日の本一の この槍を
飲みとるほどに 飲むならば
これぞまことの 黒田武士

の七五調、つまり今様である。だから『黒田節』は、もともとは『筑前今様』と呼ばれる歌だったようだ。

 

 七七七五の甚句調は戦国時代の隆達節の一部に既に見られるので、この歌が出来た頃には既にあったはずだが、まだそれほど流行っていなかったと思われる。
 そこで最後に『黒田節』を無理矢理に甚句調に変えてみる。

 

酒は飲めのめ 飲まねばならぬ

飲んでとれるか 日本号

見事飲みとり 武功を上げて

これぞ誠の 黒田武士

 

 

2017.03.15 Wednesday

宵にゃ横 夜中まともで 明け方頃は 後ろからさす 窓の月

JUGEMテーマ:都々逸の名作に真似て学ぶ

 

宵にゃ横

夜中まともで 明け方頃は

後ろからさす 窓の月

 


 当ブログを開設して一年になる。そこで、一周年記念として上記の都々逸の名作を、真似て学んでみたい。一周年を記念するに相応しい都々逸の名作を選んだつもりだ。

 

 五字冠りの都々逸である。
 文言そのままだが「宵には横から、夜中には正面から、明け方頃になると後ろの窓から月明かりが差し込んだ」という意味になろう。
 夜通し起きていたら、月がすっかり巡ってしまい、宵のうちは部屋の横から差していた光が正面からへ移動し、明け方には後ろにまわっていた。

 

 月明かりの移動をうたうことによって時間の経過を風流に描写した作品であろう。何かに熱中しているうちに、すっかり時間が経ってしまい、
「気がついたら明け方が近づいていて、月の光が後ろから差している。宵には横から、夜中には正面からさしていたのに」
というような、時の経過に対する感慨をうたったのであろうか。

 

 と、いうのは表向きで、隠れた別の意味がこの都々逸にはある。

 

 何度も言っているように、こういうことを解説するのは野暮だとは思うが、ここは[都々逸の名作に真似て学ぶ]ためのカテゴリーなので、学びのためにそうしなければならないのである。


 川柳の場合、こういった作品のことを[破礼句]と呼ぶようだ。それを都々逸にも適用して、同じく破礼句と言うことが多いようだが、本当にそう呼んでいいのだろうか。私は疑問を持っているが、その問題についてはまだ考えがまとまっていないので、とりあえず放っておく。

 

 

 こういった都々逸を読み解く時に重要なことは「どのようにして隠された意味に気がつくか」である。

 

 この都々逸の場合は[窓の月]という文句が鍵になるであろう。いわゆる江戸四十八手の体位の中に[窓の月]と呼ばれるものがある。そこに気づければ、読み解いていくことができるであろう。
 [窓の月]というのは、この都々逸の文句通り[後ろからさす]体位のことである。

 

 しかし、四十八手の名称を暗記している人が今の時代にどれだけいるだろうか。四十八手にも裏と表があり、全部で九十六手になるらしいが、私は幾つか聞いたことがある程度で、ほとんど知らない。

 

 昔の人はけっこうこういうことを覚えていたのだろう。それで、こういうものが出てくると、すぐに分かったのかもしれないが、前提となる基礎知識がないと意味を読み取るのはなかなか難しいことになる。

 

 「この都々逸は、表面上の意味では、ただ単に、月の光が部屋に入ってくる方向が移動することをうたっているだけで、大した意味がないから、裏に意味があるはずだ」
と、推測できる人もいるかもしれない。
 しかし、あらかじめ都々逸の名作だと知っていれば深読みもするが、世の中には大して意味がない都々逸も多いわけで、何も知らずに見抜いていくのは難しいのではないかと思われる。

 

 [窓の月]に気がつかないなら、[夜中まともで]に目を付けるべきであろうか。月の位置を[まとも]と表現するのは少し変で違和感がある。そこに気がついて、それをきっかけに「何か別の意味があるのではないか」と考えれば、隠れた意味にたどり着けるかもしれない。

 

 「明け方の頃は後ろからさすで、夜中はまともにさして、宵には横からさした」それは何か、と探っていく。
 そう考えると、この手の都々逸を作る場合は、少し違和感のある表現を入れておき「何かあるのでは」と気がついてもらう工夫も必要になるのだろうか。さて、どうだろうか‥‥‥

 

 いずれにしても、この都々逸の場合は[窓の月]という文句が、とにかく重要であることは疑いがない。表面上の意味でも、隠れた意味でも鍵になる言葉だ。


 

 他に、この都々逸から私が学んだこととしては、表の意味だけでも成り立つようにしっかり作るべきだということである。
 どっちが裏で、どちらが表かはわからないが、便宜的に表面的な意味の方を表としておく。この都々逸でいえば、月が時間によって移動することを表現した方が表の意味だ。そして、体位を変えて行うことの方を、とりあえず裏の意味としおく。

 

 どちらかといえば、裏の意味の方が大切であろう。それに気がつかせたいがために作っているはずだからである。しかし、表の意味だけでもしっかり成り立つ作品にしておかないと、都々逸としての価値は下がってしまうだろうと思う。
 裏の意味がわからなくても、表の意味だけえも鑑賞にたえるものが望ましい。そう作ってあることによって、後で裏の意味に気づいた時に、さらに作品の価値が高まろうというものだ。
 なかなか難しいことではあるが、そういうところを目指していきたい。

 

 

 さて、今回の真似て学ぶために作った都々逸であるが、実はもう既にこのブログで一箇月前に発表済みである。(2月15日の当ブログ)
 今回はかなり真っ当に真似していると思うし、学べているはずだ。


落ちそうな

花と知るゆえ 情けをかけて

とどめてやりたい 八重椿

 

 椿というのは、花びらが一枚いちまい散っていくのではなく、丸ごと落ちるように散る。そういうところを捉えて、たとえば俳句でも落ちる花としてけっこう詠まれている。

 

 この都々逸を作った後で、五字冠りにしなくても、

 

落ちる花ゆえ 情けをかけて

とどめてやりたい 八重椿

 

でもいいのではないかと思って、こちらに変えてみた。
 

 しかし、その後さらに、そうしてしまうと、情けをかけてやりたいのが、一つひとつの花のことではなくて、八重椿全体のことにも受け取れてしまうのではないかと思うようになった。それで、やっぱり元の方がいいように思えてきた。どちらがいいか悩んでいる。

 

 

2017.01.09 Monday

嫌なお方の 親切よりも 好いたお方の 無理がいい

JUGEMテーマ:都々逸の名作に真似て学ぶ

 

 

嫌なお方の 親切よりも

好いたお方の 無理がいい

 

 粋な恋のうたである。それ以上のことを、解釈やら何やらと、あれこれ書くのは野暮だとはわかってはいるが、ここは都々逸の名作に真似て学ぶために設けているカテゴリーであるため、野暮を承知で考察等を行いながら学習に取り組まねばならないのである。

 

 

 「この都々逸は『親切より無理がいい』などと、人間の感情の不条理を表現している」

 なんて解釈をしてしまうと、大袈裟になってしまうだろうか。
 

 しかし[嫌なお方の親切]というのは、ほんの少しやり過ぎたくらいでも、簡単にストーカー行為に認定されてしまいそうだが、[好いたお方の無理]の方は、かなりやり過ぎても、ちょうどいいくらいに受けとられそうだ。そういう意味でも、やはり不条理ではないだろうか。

 

 そういった人間の心のあり様を衝いて、見事に女の恋心をうたいあげた都々逸の名作と言えるだろう。そして、私は特に[無理がいい]という座五の締めに感服した。ここで言う無理というのは[私を困らせるような依頼]とか[強引な要求]のことであろうが、それを[無理]と表現することによって、見事な都々逸に昇華させているように思える。

 

 男が女にしたのは無理ではない。男は、我が儘なお願いとか、自分勝手な要求をしたにすぎないのである。だが、それを女が受けとめた時に、その要求は始めて女を困らせる無理となる。その無理が心を揺さぶり、恋の嬉しさに転化される。
 好いた男から与えられた無理を受けとめて、困ったような表情を見せながら、心ときめかせている情景が目に浮かぶようではないか。

 

 そこで今回は、この都々逸の内容よりも[無理]という言葉に着目し、その使い方に真似て学び、試作してみた。

 

つまらぬ道理を 聞いてるよりも

無理を通せと 言われたい

 

いくら真摯に 道理を説けど

無理が通るが 世の習い

 

つまらぬ道理は 聞きたくもない

洒落た無理こそ 通したい

 

 

2016.11.27 Sunday

あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬと あきらめた

JUGEMテーマ:都々逸の名作に真似て学ぶ

 

 

あきらめましたよ どうあきらめた

あきらめきれぬと あきらめた

 

 都々逸坊扇歌(初代)の作として今に伝えられている都々逸は少ないようだが、その中の一つである。

 


 初代都々逸扇歌は「都々逸を広めた人」である。知らない方のため、誤解がないように述べておくと、都々逸は都々逸坊扇歌が創始したから都々逸と呼ばれるのではない。すでに「どどいつ(表記のしかたは色々ある)」の原形はあり、どどいつをを自分の芸とするに際して名乗ったのが都々逸坊扇歌という名である。創始者というものとは違うと思われるが、初代都々逸坊扇歌が作ったものが後の都々逸に大きな影響を与えたことはあるだろうと推測している。少なくとも都々逸を広めた功績は大きいのではないだろうか。

 

 他に初代都々逸坊扇歌が作ったと伝えられている都々逸で、現時点で私が知っているものには下記の六つがある。もっとあるかもしれないが調査中である。どなたかご存じの方がいれば教えていただきたい。

 

親が藪なら わたしも藪よ 藪に鶯 鳴くわいな
わたしゃ奥山 一もと桜 八重に咲く気は さらにない
たんと売れても 売れない日でも 同じ機嫌の 風車
同じ約束 石山寺よ 余所じゃ私を 秋の月
白鷺が 小首かしげて 二の足踏んで やつれ姿の 水鏡
磯部田圃の ばらばら松は 風も吹かぬに 木がもめる
都々逸も うたいつくして 三味線枕 楽にわたしは 寝るわいな
(辞世らしい)

 


 では、標題の都々逸に戻ろう。この作品は音数が(四・四)(二・五)(四・四)(五)になっている。

 

あきらめ・ましたよ
どう・あきらめた
あきらめ・きれぬと
あきらめた

 

である。
 基本原則の(三・四)(四・三)(三・四)(五)でなくとも、(四・四)(二・五)(四・四)(五)が守られていれば、文句にリズムを出せることがわかる。

 

 次にうたっている内容についてである。具体的に何をあきらめようとして、あきらめきれぬとあきらめた、とうたっているのであろうか。そこはやはり、恋する想いであると考えれば、いかにも都々逸らしい解釈ができる。
「あきらめようと思ったけれど、やっぱり、あの人のことをあきらめきれない。だから、あきらめることをあきらめて、これからも恋慕っていくことにした」というわけだ。

 

 しかし、これはあくまでも一つの解釈の例であって、人それぞれ好きに考え、その時々で何をあきらめようとしたか好きなように当てはめて味わえばいいことであろう。

 


 ちなみに、添田啞蝉坊の『あきらめ節』の歌詞の最後「あきらめきれるぬとあきらめる」は、この都々逸から借用したものだと思う。
 『あきらめ節』は高田渡など色々な人に歌い継がれているが、元は添田啞蝉坊(明治5年〜昭和19年)が作ったものである。啞蝉坊は[壮士演歌]とか[明治大正演歌]と呼ばれている曲を数多く作った人であり、社会啓蒙家であるだけではなく、彼がその後の日本の歌謡曲に与えた影響には計り知れないものがあると考えている。

 

 私は都々逸よりも先に明治大正演歌に親しんだので、知るのが逆になったが、明治大正演歌にも都々逸がたくさん取り入れられていると推測している。いずれその辺りについては考察したいとは思っているが、いつのことになるかはわからない。それを考察するためには歌謡史と都々逸の関係を調べる必要があり、調査対象が膨大になってくるので生半可な気持ちで突っつくと収拾がつかないことになると気づいたからだ。今のところまったく手をつけられていない。

 


 さて、今回も少々脱線したが、いつものように標題の都々逸の名作から学び真似て、都々逸を作って締める。

 

逃げると決めたよ 何から逃げる

逃げることから 逃げるのよ

 

 

2016.10.31 Monday

惚れた証拠にあなたの癖がみんな私の癖になる

JUGEMテーマ:都々逸の名作に真似て学ぶ

 

 

惚れた証拠に あなたの癖が

みんな私の 癖になる

 

 

惚れた証拠に お前の癖が みんな私の 癖になる
というのもあるが同じだ。ある時にどちらかが、どちらかと入れ替わって伝わっているのであろう。

 

 

 ところで、惚れた相手からうつった癖を、うつされた当人が気がつかないでいる場合もあるようだ。そして、自分では気がつかないうちに、その癖を人前で見せてしまって、かなりまずい状況になることもあるのではないかと思う。

 

 自分に癖をうつした相手が誰なのか知られても問題がないならいいが、知られてはいけない相手の場合もあるだろう。

 

 もっと具体的に言えば、あなたに誰かの癖がうつってしまったとして、それを気づかれてはいけない人が身近にいないだろうか。当初は、あなたに癖を移した相手が誰だかわからなくて「なんだか変な癖がついたみたい」と思われるくらいであるかもしれない。しかし、それがだんだん疑いに発展していくのである。

 

 そして、絶対にバレてはいけないはずの、あなたに癖をうつした相手が判明してしまったとしたら、その先にどんな悲劇が待ち受けていることだろうか。もはや取り返しがつかない事態である。
 しかも、そこまでバレてしまったのに、まだ当の本人がうつされた癖に気がついていないこともありうるのだ。そしてやがて修羅場となり、しらを切ろうとしても、癖という動かぬ証拠をあなた自身が抱えてしまっている。それを指摘され、その時その場で、あなたはあなた自身についた癖をはじめて知るのである。

 

 今回は、真似て学ぶというよりも、この都々逸で思い出した実話があるので、そこから都々逸を作ってみた。もっとも、それが本来の真似て学ぶということかもしれず、今までよりちゃんと真似て学んでいるということになるかもしれない。

 

知らぬ女の 口癖うつし

二枚舌には 無理がある

 

浮気相手の 口癖つけて

だますつもりの まぬけ口

 


 

あの子の口癖 あなたに移り

やっと気がつく なくしもの

 

 

2016.10.16 Sunday

三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい[6]

JUGEMテーマ:都々逸の名作に真似て学ぶ

 

→<三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい[5]>から続く

 

[1][2][3][4][5][6]

 

 

 

■添い寝

 

 大幅に脱線してしまった。しかも長くなり過ぎた。この辺りで本筋に戻し、さっさとまとめに入って終わりに向かおう。

 

 繰り返しになるが、私はこの都々逸の解釈として[遊女が色々な客と交わした起請文(誓約書)を反故にして好きな人と朝寝がしたい]と、うたっている説を採用したい。

 

 [カラスを殺し]というのは、起請文を反故にするとカラスが死ぬというところから、たくさんの客と取り交わした誓約を破るという意味である。

 

 では[主と朝寝がしてみたい]はどうだろうか。これは[好きなあなたと添い遂げたい、所帯を持って一緒に暮らしたい]という意味である。ただし、[3]の冒頭に書いた郭の決まり事とは、別の理由からそう解釈する。

 

 つまり、
「遊廓では客を朝早く帰す決まり事があったため、客と遊女が一緒にのんびり朝寝するのは不可能であった。もし一緒に朝寝をするなら、年季が明けて郭を出て、所帯を持ってからでないと無理である。だから[朝寝がしてみたい]には「所帯を持ちたい」との想いが込められている」
という説に基づくものではなく、まったく別の理由からそう解釈する。

 

 実は私は[朝寝がしてみたい]という文句に疑問を持っているのである。そもそも、この都々逸は朝寝のことなどうたっていないと私は考える。
 唐突なようだが、この都々逸の本来の文句は[朝寝]の方ではなく、
[1]の初めの方の[■遊廓で添い寝]で紹介した

 

三千世界の カラスを殺し 主と[添い寝]が してみたい

 

の方ではないだろうか。

 

 添い寝とは、なにもしないで隣に寝ることを意味している。つまり、客と遊女の関係で寝るのではなく、所帯を持って、それをせずに添い寝をすることだと考えるのである。添い寝だけすることもあるというのは、客と遊女の関係ではなくなり、夫婦になったことを意味していているのではないだろうか。

 この都々逸の作者は[添い寝がしてみたい]という文句で、所帯を持って一緒に暮らしたいということを表現したのだと思う。

 

主によう似た やや子を産んで 川という字に 寝てみたい

 

 という都々逸があるが、これと似たような想いをうたっているのではないだろうか。

 

 この都々逸は、本来、朝寝のことなど一切まったくうたっていなかった。所帯を持って一緒に暮らしたいという気持をうたっていただけだ。だから、もともとは[朝寝]という文句は使われていなかったと考える。夫婦になりたいという気持を表現するなら、朝寝がしたいよりも、添い寝がしたいの方がわかりやすいからである。

 

 今ここで私が述べていることは、憶測に基づいて仮説を立て、その仮説から推論したことなので、論理的な説得力に欠けることは認める。ほとんど空想の域を出ていないとも言えるだろう。しかし、私は、この都々逸は本来このようなことをうたっているのだと思う。心情的にそう思う。そして、そこから都々逸について学ぼうとしているのである。

 

 「他の客との誓約なんてぜんぶ無視して、好きなあなたと一緒になりたい」というのが、この都々逸本来の意味である。
 本来は添い寝であった文句が、朝寝に変わってしまったせいで、[早朝にうるさく鳴いて、安眠を妨害するカラスを殺して朝寝をする]という意味だと誤解されるようになってしまったのだ。添い寝のままであれば、一緒に暮らしたいという意味だと推察がしやすかったのだが、朝寝に変わってせいでわかりにくくなってしまったのが今の状況である。

 

 では、どうして、いつから、添い寝が朝寝に変わってしまったのだろうか。一番あやしいのは、この都々逸が落語の『三枚起請』のサゲに使われるようになったからであり、その時からだんだんと[添い寝]が[朝寝]に取って代わられていったのではないだろうか。
 

 落語『三枚起請』でこの都々逸が使われ始めた時に、[添い寝]だったものを[朝寝]に変えたのだろうか。それもとも、だんだん[朝寝]に変わっていったのだろうか。「起請文を破るとカラスが死ぬ」ということだけに着目して使っていたとしたら、初期は[添い寝]のままだったかもしれない。そしてだんだん噺の内容に影響されて[朝寝]に変わっていったのかもしれない。
 

 いずれにしても、ある時期から落語では[朝寝]が使われるようになり、その影響で[朝寝]の方が広まっていき、やがて[添い寝]に取って代わって朝寝が浸透していったのではないだろうか。そして同時に、前述したような解釈の変化も進行していったのではないだろうか。

 

 

 

■南無阿弥陀仏

 

 では、以上を踏まえて、この都々逸

 

三千世界のカラスを殺し主と添い寝がしてみたい

 

を改めて解釈する。

 

 三千世界とは十億の世界であることは既に説明した通りであり、一人の仏で教化する世界であるとも述べた。仏が教化する世界ということは、教化が必要な世界ということであり、娑婆のことだと考えられる(過去記事[娑婆以来・Desde mundo corrupto]参照)。

 つまり、ここにいう三千世界は、ただ広い世界のことを表現しているだけでなく、煩悩まみれの俗人どもが暮らす苦しみに満ちた世界のことも意味していると私は考えた。
 

 ただし、仏教的には必ずしもそうとは言えないようである。というのは、仏教の教えにも色々とあるため、三千世界をどういった世界と考えるかにも、様々な説が存在していて断定的なことは言いにくいのである。

 それでも私には、この都々逸にうたうところの三千世界には、煩悩まみれの俗人どもが暮らす苦しみに満ちた世界、煩悩まみれの凡夫どもが蠢いている世界といった意味合いが含まれているように思えてならない。
 

 遊廓の起請文などというものは、客と遊女が互いの欲と欲で交わした煩悩の書き写しのようなものだ。だから[カラスを殺し]には、起請を破るという意味だけでなく「私を縛っている此の世の欲の約束事など一切合切捨ててしまいたい」という思いも込も込められているのではないだろうか。

 そして、遊女という仕事で稼ぐために、そんなバカげたものに縛られなければならない自分というみじめな存在を解放して、自分の気持ちに正直に、本当に好きな人と添い遂げたいという願いをうたっているのだと思う。
 

 もちろん、誓約やら郭の約束事を破るということになれば、それ相応の責め、仕置きや罰は覚悟しなければならない。とどのつまりは「現世で一緒になるのは無理だとあきらめ、結ばれるために行き着く先は心中しかない」ということになるかもしれない。

 

十億も存在するという煩悩にまみれた此の世の、

私を縛っている誓約やら、あらゆるしがらみを、

ことごとくすべて打ち捨てて、

たとえこの身がどうなろうとも、好きなあなたと一緒になりたいんだよ。

 

 これが、この都々逸の私の最終的な解釈である。


 気がつけば[1]から[6]まで全部で一万字を超える矢鱈と長い記事になってしまった。ここらで、もういい加減終わりたい。
 そこで最後に、いつものように、この都々逸を真似て学び、私も都々逸を作って締めくくりたい。だが、遊女の心情になって、こういった都々逸を作るのはなかなか難しい。そこで、それにはいずれ挑戦するとして、今回は、この都々逸への返し歌を作ってみた。

 

 もし私が、お気に入りの遊女から[三千世界のカラスを殺し主と添い寝がしてみたい]と言われたら、どう返すかである。
 「もしもにしても、お前がそんなにモテるわけがなく、ありえない話だ」と思われるかもしれないが、そういう嘘をついて、その気にさせるのが遊女であることは、既に述べた通りである。

 

カラス供養の弔い旅に

十万億土を巡ろうぜ

 

 

2016.10.10 Monday

三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい[5]

JUGEMテーマ:都々逸の名作に真似て学ぶ

 

→<三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい[4]>から続く

 

[1][2][3][4][5][6]

 

 

 

■三千世界の三枚起請

 

 この都々逸に多くの解釈が生じてしまった原因の一つは、既に述べたように、作者を高杉晋作とする説(他説有り)が、有名過ぎるからではないだろうか。

 

 本来、この都々逸は遊女の心情をうたったものと解釈するべきであるが、高杉が作ったという説の影響力が強すぎるため、作者は男であり、男が遊廓の客の立場でうたったものであるという先入観に支配されるようになった。
 そこから、[主]というのは敵娼である遊女のことだと解釈されるようになり、客の男が遊女に向かって「主と朝寝がしてみたい」とうたっているのだという誤解が生まれたのではないかと思う。
 さらに、それだけでは内容的にあまり面白くないため、面白くするための様々な解釈が加わっていったのではないだろうか。

 


 そしてもう一つの原因は、この都々逸が、先ほど紹介した落語『三枚起請』のサゲに使われていることにもあるように思う。

 

 先に紹介した落語『三枚起請』の筋を思い出していただきたい。この噺は「カラスを殺して朝寝がしたいんだよ」で落ちるわけだが、実際に落語を聴くと、この都々逸[三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい]が利用されている(場合が多い)のである。

 

 落語家によって色々なやり方はあるだろうから、私が聴いたものはその中の一つにすぎないが、ネットで調べてみても、この都々逸が『三枚起請』サゲに使われる例が多いことわかる。

 

 私が聴いた落語は、枕でこの都々逸について触れた後で本題に入って行くとういう流れであった。つまり、この都々逸で最後に落とすため、その予備知識を冒頭で説明してから本題に入っていく構成になっていた。

 

 「カラスを殺してどうしたいんだ」と聞かれて「朝寝がしたいんだよ」と、遊女が答えて、落ちるわけだが、このオチは言外に、
「あの有名な都々逸でも[三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい]ってうたわれているじゃないか、それと同じように私も(カラスを殺して朝寝がしたいんだよ)」という意味が含まれている。そういう落とし方をしていたと思う。

 

 『三枚起請』の落語と、[三千世界〜]の都々逸が切ってもきれない間柄になってしまっているのだ。まるで『三枚起請』の噺は、都々逸[三千世界〜]を前提にして作られているかのようである。

 

 しかし、この両者が言わんとしているものは、本来まったく異なる。落語『三枚起請』の方は、問い詰められた遊女が「朝寝をするために起請文を破ってカラスを殺すんだ」と、強がりを言うというオチである。ここで言う朝寝とは、朝の睡眠のことであろう。睡眠の妨げになるうるさいカラスを殺すのである。噺の流れから考えれば、好きな客と一緒の朝寝ではなくてもいい。一人でゆっくり睡眠がとりたいという意味であっても問題はない。
 

 これに対して都々逸[三千世界〜]でうたわれているのは「好きな人と朝寝をするためにすべての起請文を破ってしまいたい」というものである。こちらの朝寝は必ずしも睡眠である必要はないだろう。好きな人の隣で一緒に寝ていることが重要である。朝寝がしたいというよりも、朝の時間を好きな人と一緒にいたいということだ。

 

 その違いがあるにも関わらず、都々逸[三千世界〜]が、落語『三枚起請』のサゲに使われてしまったため、[三千世界〜]の解釈が『三枚起請』の方に引っ張られていったように思えるのだ。落語の影響を受けて、だんだんと都々逸[三千世界〜]の内容が『三枚起請』のオチと同じだと誤解されるようになったのではないだろか。
 

 いつしか都々逸[三千世界〜]でうたっている内容は、落語『三枚起請』のオチと同じで、朝寝をするためにカラスを殺すという意味だと考える人が多くなっていった。

 

 いや、『三枚起請』の噺のサゲに[三千世界〜]の都々逸を使った落語家が、[三千世界〜]の解釈を間違えていると主張しているわけではない。演る方は正しく解釈していたとしても、聴く方は正しく解釈するとは限らない。
 むしろ落語家は、正しく理解しているからこそ、この都々逸を使ったのだとも考えられる。つまり、登場人物の遊女がオチで「意味の違う的外れな都々逸を喩えに出しているところ」に、本来はこの落語の面白味があるとも考えられる。

 

 だが、その前に根本的な疑問がある。なぜ、落語『三枚起請』は、都々逸[三千世界〜]をサゲに使っているのだろうか。『三枚起請』は、この都々逸がなくても本来は落ちる噺である。使った方が面白くなるという理由だけだろうか。

 

 [三千世界〜]の都々逸がなくても本来は落ちる噺だということについて少し説明しよう。熊野牛王符の起請文について知っていて、さらにカラスが早朝から鳴いてうるさく朝寝を邪魔するものと理解していれば、この都々逸を知らなくても落語『三枚起請』は落ちるということである。

 落語を聴く側に、[起請文に嘘を書いた]→[カラスが死ぬ]→[早朝が静かになる]→[朝寝ができる]という流れが理解されていれば落ちるのである。

 

 つまり、都々逸[三千世界〜]をサゲに使っている理由は、使った方が面白くなるからではなく「聴く側がこの流れを理解していないので、その説明のために使うようになった」とは考えられないだろうか。

 

 ここで問題となるのは、『三枚起請』の噺は、はじめから都々逸[三千世界〜]をサゲに使う前提で作られたものなのか、それとも、本来は[三千世界〜]とは、まったく関係がなく作られ、後に結びつけられたものなのか、ということである。

 

 私は、関係がなく成立し、後に結びつけられたのではないかと疑っている。この噺が成立した頃の人たちは、[起請文に嘘を書いた]→[カラスが死ぬ]→[早朝が静かになる]→[朝寝ができる]という流れを理解できたので、落とすために[三千世界〜]の都々逸は必要なかった。だから当初は使われていなかったと考える。使われるようになったのは後のことであると推測する。

 

 この問題を考えるには、まず、落語『三枚起請』と、都々逸[三千世界〜]は、どちらが先に作られたのか明らかにする必要がある。

 

 そこで、少し調べてみた。

 

 

 

■二代目三遊亭圓朝

 

 調べてみた結果をはじめに述べておくと、よくわからなかった。

 

 わかったのは、『三枚起請』が、もともとは上方落語で、難波新地のお茶屋を舞台にした噺であったこと。そして、それを初代三遊亭圓右が、舞台を吉原遊廓に変えて江戸落語に持ち込んだということだ。(ちなみに、私が聴いたことがあるのは江戸落語の方である)

 

 難波新地というのは大阪の南地五花街の一つである。南地五花街は江戸時代から発展し、明治以後に大阪最大の花街となったようである。しかし、それがわかっても『三枚起請』の噺がいつできたのかはわからない。江戸時代かもしれないし、明治になってからかもしれない。江戸時代を舞台にした噺は、明治以後にも作られているので、この噺が明治以後に作られたとしても不思議ではない。

 

 次に、初代三遊亭圓右、つまり三遊亭圓朝を襲名しながら、その後すぐに亡くなってしまった幻の二代目圓朝についてである。万延元年6月15日(1860年8月1日)に、江戸は本郷に生まれ、 大正13三年(1924年11月2日)に没した。
 もちろん東京の落語家であるが、明治30年くらいから上方でも活動したようなので、『三枚起請』を江戸落語に持ち込んだのは、おそらくそれ以後だと思われる。

 

 これに対して、都々逸[三千世界〜]が作られたのはいつか。高杉晋作の作かどうかはわからないが、高杉説が有名になるくらいだから、高杉の時代に近い、その前後であると推測しておく。つまり幕末維新の頃としておく。

 

 上方で『三枚起請』の噺が作られた時に[三千世界〜]の都々逸が既に作られていて、世に知れ渡っていたかどうかは不明である。
 一方、三遊亭圓右が、この都々逸を知っていたことは、時代的に考えてほぼ間違いないと思われる。だから、圓右によって『三枚起請』が東京に持ち込まれる時に、この都々逸がサゲとして使われはじめた可能性はあると思う。しかし実際のところはわからない。それより以前から上方で既に使われていた可能性もある。

 

 つまり、残念ながら何も確定的なことはわからなかった。ご存じの方がいたら教えていただけるとありがたい。

 

 

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2016.10.04 Tuesday

三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい[4]

 

 

 

 起請文というのは誓約書のことである。

 

 熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三つの神社の総称)では、それぞれの神社で[熊野牛王符]と呼ばれる神札を配布している。神札と言っても神棚にお祀りするような短冊状のものではなく、半紙のようなものに文字が書かれ印が押してあると言えばわかりやすいであろうか。和紙にカラス文字(カラスの絵で表された文字)が書かれ、朱印が押してあるものである。
 三山それぞれで意匠は少し異なるが、カラス文字が書かれているのは共通している。カラス文字が使われているのは、カラスが熊野の神の使いだからである。

 

 話が脱線するが、カラスが熊野の神の使いだということは、日本サッカー協会のシンボルマークや日本代表エンブレムとして八咫烏(やたがらす、やたのからす)が用いられていることにも関係している。
 日本神話で、八咫烏は神武天皇の東征に際して熊野国から大和国への道案内をしたとされている。ここから神の使いと考えられるようになったようだ。また八咫烏自体が、導きの神として崇拝されることもある。
 八咫烏がサッカー日本代表のエンブレムに採用された理由には、天武天皇が熊野に通って蹴鞠をしていたから、とか、藤原成道という人が熊野に詣でて蹴鞠上達を祈願し、蹴鞠の名人になったから、などの説があるようだ。また、導きの神ということから、ボールをゴールに導くようにとの願いから、とも言われている。

 

 話を元にもどす。

 この熊野牛王符は、護符として使われる他に、起請文(誓約)を書く用紙として使われることがある。裏面に起請文を書くのである。
 熊野牛王符の裏面に起請文を書くと、熊野の神に誓ったことになる。もしそこに書いた誓約を破ると、熊野の神の使いであるカラスが三羽死に、破った本人も血を吐いて死ぬとされている。

 

 起請文についての説明は以上である。

 

 次に、その起請文が遊廓でどのように使われていたのか説明したいが、これは落語の『三枚起請』という噺を聴くと、だいたいわかってくる。そこで、説明する代わりに、その『三枚起請』の噺の筋をごくごく簡単に述べてみる。

 江戸時代の遊廓が舞台の噺である。

 

 ある遊女が、馴染み客に「年季奉公が明けたら、あなたと結婚します」という起請文を書いて渡した。(もちろん熊野牛王符に書いた起請文である)
 それを受けとった客は、遊女に本気で惚れられたと思い、すっかりのぼせて、その気になって、その遊女のところへ客として足繁く通っている。
 しかしある日、自分がもらった起請文と同じ内容のものを、別の客二人も持っているのを知ってしまう。(つまり自分の分を合わせて三人分、三枚見つかったので三枚起請である)
 同じ遊女が書いたものだ。そこで、その二人の客と一緒に、その遊女のところへ行き、どういうつもりで同じ起請文を渡したのか問い詰める。
 遊女は、ごまかそうとしていたが、やがて観念して、金を稼ぐために嘘の起請文を書き、客の男どもをその気にさせて通わせていたことを白状する。

 

 そこでだまされていた男の一人が言う。
「起請文に嘘を書くと熊野のカラスが三羽死ぬと言うだろう」
すると遊女は、
「私は世界中のカラスを殺したいんだよ」と答えたので、
男が、
「カラスを殺してどうしたいんだ」と聞くと、
遊女がこう答える
「朝寝がしたいんだよ」

 これが落語の『三枚起請』の極めて大まかな筋である。

 

 【五】の説は、こういう背景を知ってはじめて意味がわかるはずだ。

 

 実際に遊廓ではこうした起請文がよく交わされていたようであり、こんな川柳も伝わっている。

 

約束に烏に指の血を吸われ

 

 起請文には遊女と客の血判をおしたようである。
 また、

 

熊野では今日も落ちたと埋めてやり

 

というのもある。

 起請文の誓約は毎日のように破られていたようだ。

 

 つまり、起請文に書いた誓約を破るとカラスが死ぬとされているところから、この都々逸にある[カラスを殺し]というのは「起請文に書いた誓約を破ることだ」というのが【五】の説である。他のたくさんの客と交わした誓約をすべて破って、好きな人[主]と朝寝がしたいとうたっているという説である。

 

 

 

■安眠妨害

 

 以上の説明を経て、どの説を採用するべきであるか検討してみたい。

 

 つまるところ、大きな問題は[カラスを殺し]の解釈として【五】の説を採用するかどうかにかかっていると思われる。

 

 仮に【五】を採用しないのなら、他のいずれの場合でも、

 

好きな人とゆっくり朝寝がしたいので邪魔になるカラスを殺したい

 

 というのが、この都々逸の表面的な意味になる。つまり【一】か【二】の解釈である。
 

 そして、その深意には【三】の、

 

この世の面倒や厄介から解放されたい

 

というような気持が含まれているかもしれない。

 

 作者が客なのか遊女なのかは大事な問題ではあるが、【五】さえ採用しなければ、どちらであってもとりあえず上記の解釈で意味は通る。

 

 もし、作者が高杉や久坂や桂などと考えるなら【四】の解釈をしてもいいだろう。

 

 そして、この解釈では、ゆっくり朝寝がしたいということが主題になるので、最初の方で触れた、下五の後半の文句として[朝寝がしてみたい]が相応しいか[添い寝がしてみたい]が相応しいかか、という選択は[朝寝]になるであろう。
 ただし、添い寝でも通じないわけではない。カラスを殺すこと自体が既に朝寝を妨害するものの排除を意味しているので、朝寝と言わず添い寝としても、それが[朝の添い寝]であるとが推測できるからだ。だが、この場合は[朝寝]にしておいた方がわかりやすいと思う。

 

 【5】を採用しない場合、この都々逸の解釈は以上のようになる。


 だが、この解釈の最大の問題点は、何と言っても、これではあまり面白くないということだ。歴史的な名作と呼ぶには、この解釈では物足りない。

 だから私は、面白くないという理由だけでも、この解釈を採用したくない。それでは、[都々逸の名作に真似て学ぶ]という私の目的のためにもあまり役立たない。そこで、上記の解釈は却下し、学びの多い【5】の説を採用する。つまり、【5】が真っ当な解釈だと思うものの、そう主張する根拠は科学的なものではない。

 

 整理しよう。私の(非科学的な)主張では、この都々逸は「色々な客と交わした起請文(誓約書)を反故にしてでも、好きな人と朝寝がしたい」という遊女の心情をうたったものである。([朝寝]が何を意味しているか等の問題は後ほど説明する)
 作ったのは遊女自身かもしれないし、【丙説】のように遊女の気持ちを汲んで作った別人(たとえば遊廓の客)かもしれない。

 

 

 では、【5】の説に基づいて、その解釈をこれから説明したいと思う。しかし、その前に、なぜこの都々逸は、これほど多くの解釈が生じさせてしまったのか、その原因についても考察しておきたい。

 

 

→<三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい[5]>へ続く

 

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2016.10.01 Saturday

三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい[3]

 

 

 

■寝所つぶし

 

[朝寝がしてみたい]で問題になるのは、[朝寝]を遊廓の中でするのか、どうかである。

 

 遊廓では客を朝早く(卯の刻・だいたい朝6時)に帰す決まりになっていたので、客と遊女が一緒にのんびり朝寝することはできない。だから一緒に朝寝ができるのは、年季が明けて郭を出て、晴れて二人が添い遂げてからになる。
 つまり、この[朝寝がしてみたい]には、「年季が明けたら好きな人(主)と所帯を持ちたい」という想いが込められている、という解釈がある。

 

 さてどうだろうか。早朝に客を帰す決まりはあったようだが、この都々逸はあくまでも願望をうたっているわけであり、必ずしも現実性が必要なわけではない。また、[居続け]といって、客が連泊することもあり、その場合は一緒に朝寝もできたのではないだろうか。(実際にできたかどうかわからないので、知っている方がいたら教えていただけるとありがたい)

 

 この問題も、後でまとめて考えるために今は保留として、次に中七の[カラスを殺し]について検討しよう。

 

 

 

■明烏

 

 どうしてカラスを殺したいのか、カラスを殺すとはどういう意味なのかか。5つの説を挙げる。

 


【一】
 好きな人とゆっくり朝寝をするために、早朝からうるさく鳴くカラスを殺したい。

 

 カラスは早朝からカアカア鳴いてうるさいので、好きな人と朝寝をするのに邪魔だから殺したいという説である。

 


【二】
 鳴いて朝を告げるカラスを殺してしまい、朝が来たとわからないようにして、好きな人と朝寝を続けたい。

 

 【一】と類似している説だが、鳴き声がうるさくて寝ていられないから殺すのではなく、鳴き声で朝が来たと主にわかってしまうのを防ぐために殺すというものだ。「寝る」という言葉の意味が睡眠のことではなく、「朝が来ても一緒に寝床に居続ける」という意味なら、この説の方が理に適っている。【一】とは、殺す直接の理由は異なるが、朝寝を妨害するカラスを排除するという意味では同じである。

 

 また別説に、カラスを朝をもたらす鳥と考え「三千世界のすべてのカラスを殺して朝が来なくなるようにし、それで主と寝続ける」というような説も見た覚えがある。しかし、朝が来なくなってしまったら、いくら寝ても、それでは朝寝ではなくなるので、成り立たない説だと思う。
 それに、朝になって明るくなってからも寝続けているという自堕落な感じがしないと風流さに欠ける。

 


【三】
 好きな人とゆっくり朝寝をするために、世の中の様々な面倒から解放されたい。

 

 カラスというのは、片付けなければならない厄介な問題や、色々と面倒な諸事万端の喩えだという説だ。[カラスを殺し]というのは、そういった面倒事を放棄するか、あるいは処理を済ませ「すっかり解放されて、好きな人とのんびり朝寝がしたい」という意味だという説である。


 

【四】
 佐幕派を一掃し(皆殺しにして)大望を遂げ、その後、好きな人とゆっくり朝寝がしたい。

 

 この都々逸の作者が高杉、もしくは久坂や桂であるという説から、カラスというのは佐幕派などの敵対勢力のことである、という解釈を行うものである。【三】の解釈から派生したものとも考えられる。


 

【五】
 遊女が「色々な客と交わした起請文(誓約書)を反故にして、好きな人と朝寝がしたい」とうたっている。

 

 この説は[起請文]がどんなもので、それが遊廓でどのように使われていたかを知らないと、何を言っているのかわからないであろう。

 

 そこで、[起請文]とは何か簡単に説明したい。

 

 

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